ニューズマガジン「Sound Arts」

1995年4月〜1998年

下田 展久さん/ジーベックホール(当時)、C.A.P.メンバー

テキスト:松本ひとみ

震災以前から、神戸にはポートアイランドのジーベックホール(※1)やC.A.P.[芸術と計画会議](※2)など、現代音楽や現代美術を生み出す土壌がありました。震災をきっかけに、これらのコミュニティはどんな影響を受け、変化していったのでしょうか。これらのコミュニティを行き来し、震災以後の状況を作り出されたお一人である下田さんにお話をうかがいました。

 

ジーベックホールの運営

1989年、ジーベックホールは設備音響会社のTOAを親会社として神戸の人工島・ポートアイランドにオープンしました。TOAは、駅のアナウンスなど公共空間の放送設備を製造・販売しており、国内シェアの3分の1ほどを占めていたため「人と音と社会」というテーマで運営していくことになりました。電子音楽、サウンドアート、ビデオインスタレーションなどのプログラムを自主プロデュース。またアジア諸国における音楽、音楽の社会的あり方を知り、日本のそれと比較する、「アジアの音楽シリーズ〜レクチャー・コンサート」を継続実施し、CDの出版等も行いました。

 

営業できなくても、集まりたい

阪神・淡路大震災で、神戸の都心部からポートアイランドへ渡る交通機関・ポートライナーが崩落。年内は復旧しないと発表され、ホール営業もできないという前提で予算が組まれました。けれど、それでも集まりたいという人たちが現れました。それで震災の年の6月に「Live at Healing Camp」というイベントをおこないました。このとき400人程の人たちが三宮から一時間くらいかかって歩いて来てくれました。

8月にはブルガリア女声合唱団アンジェリテが来日し、コンサートを開催。コロンビアレコードからライブのCDを発売して、売り上げをホールへ寄付してくれました。

予定より早く、ポートライナーは7月くらいに復旧しました。ActeKobe(※3)がはじまり、C.A.P.とも知り合いになって、10月にCAPARTY(※4)をおこないました。

 

雑誌「Sound Arts」を創刊

1年間、普通には事業ができなかったので「Sound Arts」という雑誌をつくることになりました。現代音楽や芸術に興味をもつ人達のコミュニティがジーベックを中心に形成されていたため、震災後もつなぎとめておきたいという目的でおこなったことです。創刊は1992年だったのですが、その後途絶えており、震災をきっかけに復活させたのです。2号を発刊したのが、1995年4月30日。はじめは隔月、じきに年4回ほどのペースで発行し、結局17号まで出しました(1998年11月)。もともと会報誌だったのですが雑誌が独り立ちして、タワーレコードに置かれたりもしました。

バイリンガルだったので、海外でもかなり読まれていました。当時、日本の現代音楽をリアルタイムで知るメディアが一つもなかったんです。ホールには海外からアーティストが来ることがあり、その都度渡していたらどんどん広がって、会ったこともない海外の研究者や批評家が寄稿してくるようになりました。ホール復活後は、そのつてでコンサートを開催することができました。

英語版なら、Webで読めます。カールストーンという音楽家が自身のウェブサイトを使って、掲載してくれています。(※5)

 

ActeKobeとCAPARTY

震災が起こり、ホールに行けないので家にいたら、フランス在住のベース奏者バール・フィリップスさんから電話をもらいました。神戸のアーティストにシンパシーを示したいのでActe Kobeという名でアクションをおこす。義援金も少しは集まるだろう、しかし集まった義援金を誰に渡したらいいのだろう、という相談でした。法政大学の震災関連のコンサートのため、彼が3月末に来日することになって、その時に神戸でお会いしました。しかし、ジーベックは企業だし、義援金を誰が受け取るのがいいか、アイデアが浮かんだら連絡するからといって別れました。そんな時、藤本由紀夫さんから「面白いアーティストが集まってミーティングしているので来ませんか」と電話がかかってきて。行ってみたら、C.A.P.の集まりだったんです。

当時、彼らは旧居留地ミュージアム構想について話していました。旧居留地のまちのリソースを生かして、建物を建てるのでなく、まち全体をミュージアムだととらえる構想でした。市と県と旧居留地の会社の人たちに提案するという話になっていたので、ActeKobeの義援金を生かして、もっと広く一般の人を招いて話す機会を設けてはどうかと提案しました。そして、1995年10月に、アートセンターを考えるシンポジウムを中心とした一日だけのアートパーティーを計画し、CAPARTYと名づけ、実施することになりました。けれど実は、ActeKobeのお金だけでは足りず、スイス・ベルンで行われたActeKobe2の義援金と、その他にも助成金をもらって実現したんです。ぼくはその時、ジーベックホールの社員だったので、ホールを無料で使えるようにコーディネートし、C.A.P.とActeKobeとのつなぎ役などもつとめました。

直接、いろいろな人が集まってアートをめぐる話をする、こういった機会はおもしろいぞということになり、C.A.P.としては継続することになりました。サポーティングメンバーシップを作り、旧居留地の会社の方などに入っていただいて、年に何度か市民が参加できるようなイベントを実施するようになり、今でも続けています。

 

それからのC.A.P.

C.A.P.は、代表である杉山のアトリエに集まって、毎月ミーティングをしてはサロンを開いて知人を招きその人の話しを聴く、ということを続けていました。

現在、CAP STUDIO Y3がある旧神戸移住センターは、99年の時点で空きビルになることが決まっていました。神戸市が「ここは歴史的な建物だから、活用法を考えてほしい」と声をかけ、ゼネコン各社がプランを考えました。

そんなゼネコンの1つの企画部の方から、C.A.P.も相談を受け、話し合いを重ねました。しかし神戸市は震災後で資金がなく、その会社の提案を含め、すべての案がボツになりました。当時の旧神戸移住センターは、2階のフロアだけ、震災で庁舎が壊れてこまっていた海洋気象台が使っていましたが、それ以外は4年間閉ざされたままでした。海洋気象台も99年に出ていき、いよいよすべてが空きビルになるという時に、どうせ空くなら、C.A.P.の資金で、これまでずっと考えてきた「社会とアートの関係を考える」実験をやってみようということになりました。

神戸市に許可を取り、電気や水道を引き、屋内消火栓を設置しました。少しずつプールしていたサポーティングメンバーからの資金をすべて使い、期間限定ならできるだろうと、半年という期間を設定。11月~翌年5月の190日間、「CAP HOUSE〜190日間の芸術的実験」をおこないました。

 

半年後、プロジェクトは終了し、C.A.P.は建物を出ましたが、神戸市から「引き続き、活動することはできないか?」と相談されました。常にドアオープンというわけではなかったのですが、震災復興記念事業の一部を企画制作する仕事を請い、その事務所を旧神戸移住センター内に設けさせてもらうことで、活動は途切れずにつながっていきました。

 

その後、神戸市から委託された事業も終わり、いよいよつながりがなくなるなぁと思っていた時、新たな展開がありました。ブラジルに移住した日系人は、経済的に力を持って現地で日系人社会をつくっています。その彼らが「自分にとっての日本の思い出は、お父さんやおじいさんから聞いたこの建物だから、ぜひ残して国立の博物館にしてほしい」と神戸市の助役に頼んだのです。とはいえ、国も独立行政法人化などを進めている最中のこと。そこで、市が1階の一部を資料室としてオープンし、C.A.P.が管理を請うことになり、その他のスペースを利用して自己資金で自主事業をおこなうことになりました。そこで2002年に法人化、神戸市と契約して活動を再開、2007年まで継続しました。

CAP HOUSEの当初、音楽家やダンサーなどActeKobeの関係者もC.A.P.のミーティングに参加するなど、ActeKobeとC.A.P.は渾然一体となっていました。こうして、C.A.P.とActeKobeがCAP HOUSEプロジェクトにつながっていったのです。

 

「神戸のアーティスト」とは誰なのか

C.A.P.のメンバーは、直接的には震災・義援イベントにはコミットしていません。ActeKobeにしても、人と人がつながり合っていくという非常に個人的な取り組みです。被災地の人たちにサービスを提供したり、見えない誰かに何かをしたりというよりは、今知り合った人たちがつながっていくという、ごく近い関係性です。

バール・フィリップスが神戸に来て、「被災した神戸のアーティストにシンパシーを示したい、誰にコンタクトしたらいいんだ」と言ったことが、わたしたちにとって二つの大きなことをもたらしてくれたと思います。

 

まず、神戸のアーティストとは誰なのか、ということを神戸のアーティストが考えたことです。バールは世界的なコントラバス奏者で、世界コントラバス会議の議長を務めている人。そんな人物が、自ら神戸にやって来た。バールは音楽家であり、C.A.P.メンバーは現代美術家。他にも音楽家、ダンス、民族音楽、電子音楽など、いろいろな人が集まり、話し合い、考えました。そしてある時、「神戸のアーティストって、自分たちのことじゃない?」ということがわかったのです。外からの視点があって初めて、自分たちのもう一つのアイデンティティを持てたわけです。

二つめは、神戸のアーティスト同士が、外からの視点によってお互いのことを今まで知らなかったことに気づけたことです。すぐそばに住んでいるのに、具体的な仕事や活躍をお互いに知らなかったので、バールに神戸のアーティストについて説明したくても話せませんでした。震災や、バールが来ることがなかったら、そんなことには気づかなかったはずです。

バールが来たことをきっかけに、いろんな人が集まって、お互いを知るためにプレゼンテーションしようとか、ご飯を食べよう、ということを重ねていくうちに、集まりができて友達になりました。

きっかけがなかったら個人で活躍しているだけで、神戸のアーティストのコミュニティに自分が属しているという意識はもてなかったと思いますし、お互いを深く知ることはなかったでしょう。震災をきっかけに「外から見られている」ことを受け入れせざるを得なくなり、さまざま動きが生まれました。これは、わたしたちにとっては大きな収穫でした。

 

 

※1 ジーベックホール http://xebec.co.jp/

※2 C.A.P.[芸術と計画会議] http://www.cap-kobe.com/

※3 ActeKobe http://www7a.biglobe.ne.jp/~songbook/actekobe/home.html

※4 CAPARTYについては、C.A.Pウェブサイト内「これまでの活動」を参照。 http://www.cap-kobe.com/activity/history.php

※5 Sound Arts http://www.sukothai.com/xebec.html

1次調査

日時補足
1995年4月(vol.2発行)~1998年(vol.17)
背景や目的
震災後、ポートライナーや神戸大橋が大きな打撃を受け、全面復旧にはかなりの時期を要する見通しであったため、ジーベックホールはコンサートを開催できる状態ではなかった。そこで、震災以前に一度発行していた『Sound Arts』を復活させ、公演の代わりに紙面で発信することとした。 「人間の創造力に関わる仕事を持てたことに感謝して、みなさんとのコミュニケーションを進めていきたいと思っています。」(vol.2巻頭)
内容
サウンドアート、エレクトロニックミュージック、民族音楽などを中心とした内容。 批評、作家インタビューやイベントレポート、コラムなどを日英バイリンガルで提供。 Vol5までは郵送費540円で郵送販売。Vol.6からはオンラインサインアップ制BBSで日本語テキストを無料提供。
発起人・主催団体
編集:下田展久、森信子、溝口治子 ジーベックホール