兵庫こども劇場おやこ劇場協議会と被災地巡回公演
1995年2月15日〜1995年6月29日米川綾子さん/NPO法人 兵庫子ども文化振興協会
テキスト:見通真次米川綾子(よねかわりょうこ)さん(兵庫子ども劇場おやこ劇場協議会(現:NPO法人 兵庫子ども文化振興協会(※1))
「兵庫子ども劇場おやこ劇場協議会」は、子どもたちに舞台芸術に触れてもらいたいと活動を続けてきました。米川綾子さんは、震災直後より各地の避難所と劇団とをマッチングさせ公演を届ける、コーディネート役として奔走されました。
子どもたちのためにできること
震災直後は伊丹にいました。伊丹駅周辺や駅舎はひどい被害で、私の家の中では家具がぐしゃぐしゃになりました。事務所は元町栄町通りにあったのですが、直後は行く手段がなく、1週間後にやっと行けるようになりました。直通の電車は復旧していなかったので、三田方面から神戸電鉄と地下鉄を乗り継ぎ、新神戸から歩いて元町まで出勤しました。徐々に交通機関が回復していくまでは、毎日2時間半~3時間かけて出勤し、同じ時間をかけて家に帰る日々でした。
まず、これからどうするかを考えました。「兵庫子ども劇場おやこ劇場協議会」(以下、「おやこ劇場」)は、日常的に子どものための演劇や人形劇のプロの団体と一緒に活動していました。危険な状況下で子どもたちがどうなったかが心配でした。
元町の事務所は、ぐちゃぐちゃにはなりましたが被害は軽く、電話もつながっていました。全国のおやこ劇場や劇団の方から、安否確認や援助の申し出が殺到しました。それらを聞きながら、私たちはなにができるのかと考えた結果、あえてこの地にとどまり、子どもたちのためにできることをしていこうという結論になりました。
「大丈夫になったら声かけて」
被害を受けた各地域で、人形劇や腹話術を上演するコーディネート活動を始めました。最初に避難所にいるおやこ劇場の会員の方に申し出たときは「今はそういう時期じゃない」と大変怒られました。そこで「大丈夫になったら声かけて」「劇団のみんなが心配してるから」と声掛けをしていました。震災の1ヶ月後に、比較的被害の軽微なエリアからボランティア公演の活動を開始しました。
神戸には4つのおやこ劇場があり、会員さんや役員さんが神戸中に広がっていたので、人づてにその場所の状況を知ることができたのは強みでした。ネットワークはきめ細かく、避難所ごとに会員さんが誰かしらいらっしゃるような状況でした。それぞれの避難所の状況を聞き、状況に合った公演を行い、それに対するフィードバックをもらう、という形で各所を回りました。
活動は3日に1回のペースで丸1年間続きました。4ヶ月目ぐらいからはシアターワークス(※2)の方と一緒になってワークショップをしました。2週間に1回、福祉センターなどの公共の場所でワークショップを続けてきました。活動を始めたときには、震災が起こった事実を受け止めきれずにいました。つぶれた家や避難所に足を運んで活動を続けるうちに、2年ぐらいかかってようやく受け止められるようになりました。
子どもたちの硬くなった心と体を解く力
避難所は戦場でした。親たちは日常の生活を立て直すために役所に行って書類を書いたり、片付けをしたりと必死でした。子どもたちはそんな親の姿を見ながらじっと我慢をしているという状態でした。いままで通っていた幼稚園には行けず、通える幼稚園を間借りしている状態でした。子どもたちは何が起きたのか理解していませんでしたが、親の不安を一身に受けとめており、元気がありませんでした。
公演できるようになって初めて出かけた幼稚園では、子供たちがすごく笑ってくれました。腹話術でいろんなパターンがあるようですが、「子どもがわがままを言っておじさんを困らせて会話を楽しむ」という腹話術をしました。これが一番、子どもたちの反応が良かったように思います。
日常生活では、子どもは親や家族にわがままを言ったり甘えたりします。しかし、震災後は大人が血相を変えているので、子どもたちはわがまますら言えず、我慢するしかありませんでした。状況はよくわからなくても、非日常のなかに自分たちがいることを理解しているのです。ところが腹話術を見た瞬間、子どもたちはポーン!と日常をとりもどしたような、そんな感じがしました。みんな、はじめは座って聞いていたけれど、転がりまわって隣の子をたたいたりしてとても楽しそうに笑っていました。後で園長さんに聞いたところ、「この子たちが震災後にこんなに笑ったのは初めてですよ」とのこと。やっぱりそうなんだ、と思いました。
人形劇や腹話術を見ることが子どもたちの硬くなった心と体をフッと解いてくれる、そういう力があるのかなと思いました。また、絵を描いたり大きな声を出したり、身体を思いっきり使ってあそんだりして自分を表現することが大切なのだと思いました。何かに夢中になることで、心がほぐれて解放されていく。文化芸術はこういうときに力をもつのだと実感し、それからもいろんなところで公演をしました。公演の対象は子どもでしたが、大人も年配の方もみんな一緒になって見てくださり、子どもたちが楽しんでいる様子を見ることで大人も癒されていました。初めは、演劇に心のケアができるのかという問いには答えが出せないまま活動していました。しかし、この活動を通して、楽しんでもらえるという点においても、そして心のケアに寄与するという点においても、文化芸術は人間にとってかけがえのないものだと感じました。
被災者の方が仮設住宅に移られてからは、高齢者を対象にしました。独居、孤立化という非常につらい状況が見えてきて、ぜひ公演を見てほしいと、作品を持っていきました。
おやこ劇場の発足
おやこ劇場の発足は45年前、福岡での設立が最初でした。その後、もともと子どもを対象に公演していた劇団がおやこ劇場の名を広めました。全国組織で、拠点は一番多かった時で約700か所ありました。
テレビが普及した時代、子どもたちの遊びが外遊びから屋内での遊びになってきたため、子どもたちに遊びを通して自主性を育み、すぐれた文化芸術を提供してたくましく生きる力をつけていくことが大切と、会費制の会員のための組織が各地でできていきました。
活動の使命については震災前から議論になっていました。多くの人に舞台芸術を見てもらう機会をつくり普及していくべきではないかと言われていて、そのための準備をすすめていたところ、震災が起こったのです。
地域の人が立ち上がるのをどうやって支援するか
活動が実現したポイントは、まず1つには、以前から日常的に劇団と関わりがあったので、それぞれの劇団がどのようなタイプの活動をしていたかを把握できていたことです。場所と状況にあわせて、パフォーマンスのタイプや、アマチュアかプロかなどを選びコーディネートしていました。今になって思えば、避難所の方の要望に応えきれていたのか、本当のところはわからない部分はありました。例えばアマチュアの方であれば、どうしてもプロの方に比べて盛り上がりに欠ける場合もあるため、単なる公演だけでなく参加型のワークショップをしてみるなどの配慮はできたと思います。これは今だから言えることで、当時は精一杯だったのですが。
2つ目は、それぞれの地域や避難所内にいらっしゃったおやこ劇場の会員さんが、キーパーソンの役割を果たしてくれたことです。場所と劇団のマッチングをするためには、実際に会場を見ることが必要でした。会場の広さや年齢層などによって、できることやしたほうがいいことが変わってくるためです。避難所はひとつの自治会のようなもので、いきなりトップの方に話しに行くのではなく、その場のコミュニティに属している会員さんに紹介していただくことなどが大切でした。
避難所は生活の場なので、訪問は寝床におじゃまするようなもの。生活の邪魔にならないように気をつけました。生活が第一なので、「この場所でないとできない」などとは言わずに、与えられた場所で最大限のことができるように心がけました。人数は集まってくださっただけでよく、少なくてもかまいませんでした。
3つ目は、劇団の方々がもともとボランティア活動の経験が豊富だったこと。状況に合わせて「こういうときはどうしたらいいか」などを熟知していたことです。
東日本で地震が起こり、何かしたいと思ってはいるのですが、実際はできていません。被災地の範囲が広く、被害が甚大であるという理由もありますが、なによりコーディネーターを見つけることが難しく、地域の人で、一緒にやっていこうという人が見つからないと活動は困難です。仙台におやこ劇場があり、その方たちに聞くと極端にボランティア公演が入っているところは、みんな疲れてきているということもあるようです。また一方では、ある地域には公演が全く来ていない、というように差があるようです。こういう状況を聞くとコーディネートの役割は大きいですね。主体は地域の人なので、自分たちですべてをやってしまわないように、地域の人が立ち上がるのをどうやって支援するか、と考えることが大切だと思います。
※1 特定非営利活動法人 兵庫子ども文化振興協会 http://www13.ocn.ne.jp/~npooyako/
※2 シアターワークス 阪神・淡路大震災後に衛紀生氏の呼びかけで生まれた団体。各地の避難所を回り、劇団と一緒にワークショップなどのボランティアを行った。