ダンサー、大道芸人などが街中でパフォーマンス

1995年1月

大谷 燠さん/NPO法人 DANCE BOX 代表

テキスト:宮田晴菜

大谷

大震災当時は、大阪「TORII HALL」のプロデューサーをしていました。家は神戸の須磨にあり、被災しました。山の上の地盤が固い地域だったので屋内の被害はほとんどなく、朝の9時ごろに友人が安否を確かめに来てくれて、その時初めて家の外に出ました。周りの状況を目にして、これは大変なことになったなと。

僕自身は、ダンスに関わる者としてのプロジェクトなどはできませんでしたが、以前、舞踏とパントマイムをやっており、当時は子どもが保育所に通っていたので、保育所回りをおこないました。震災から3日後くらいだったと思います。子どもたちの体が縮こまっていたので、遊んだり体を動かしたり、パントマイムでクイズをやったり。1週間くらいは自分の持っているスキルで色んな保育所を回り、ワークショップというより遊びに近いものを生み出していきました。

10日ほどたって、大阪で仕事をしていたこともあり、家族で大阪へ避難しました。それ以降は、被災地で直接的な支援活動をすることもなく、劇場で義援金を募るくらいでした。

僕の周辺では、95年の段階ではコンテンポラリーダンスより舞踏が盛んでした。半月後くらいから「鎮魂」の意味をこめて、舞踏をする人が新長田などのストリートへ出て、今は無くなってしまった菅原市場あたりをメインに踊り始めていました。東京からも舞踏家が参加していましたね。友人の話では、初めのうちはまちの人から相手にされず、「なんやこのお兄ちゃん」というような反応だったのが、踊っているうちに見入って涙を流してくれる人も出てきたそうです。「何をしていいのかわからなかったけど、とにかくその場に行って踊ることが大事なんやと思った」と彼は話してくれました。

 

目に見えないものと関わっていく力

東日本大震災から5日後くらいに、鳥取でアートNPOフォーラム(※2)が開催されました。開催そのものについて理事の間で議論がおこなわれた結果、やっぱりやろうということになりました。急遽内容を変更し、「アートやアートNPO法人が震災に対してできることは何か」というテーマで3日間話し合いました。僕が阪神・淡路大震災を経験したということで意見を聞かれ、先ほどのようなことをお話ししました。阪神・淡路大震災当時は何もできなかったという意識があったので、話しているうちに当時感じた無力感が襲ってきて、心臓がドキドキしました。フォーラムでは具体的に何かを立ち上げていこうということになり、「アートNPOエイド」(※3)を実施することになりました。

阪神・淡路大震災時は、個人レベルでは何もできなかったという思いがありました。今はNPOという団体を通してアーティストと共同で活動しているので、今回は何かできるはずだと思い、まずアーティストの意見を聞くことから始めました。話をしてみると「何かしたいけど、何をしていいのかわからない」という意見が多かったので、「ひとつの方向に向かうのではなく、まず集まって踊ることから始めましょう」と提案しました。東京やパリで活動していた人も集まり、ダンスボックスのシアターで、1組約7分ずつ、全47組が結局8時間ほど踊り、USTREAMでも配信しました。普段していることをそのまま表現したダンサーもいましたし、霊鎮めの祈りに近いものを披露するダンサーもいました。想いが集中するのをはぐらかすような踊りを見せる人もいました。表現は自由でいいと思うし、多様な踊りがそこから生まれたことはおもしろいなと思いました。

いま「がんばれ日本」という言葉が広がっていますが、なんとなく気持ち悪さを感じています。国家単位で取り組むべきことがある一方、同時に個人やローカルな単位で取り組まなければ問題はおそらく解決しないし、細かい部分まで関わることはできないと感じています。特にアートは目に見えないものと関わっていく力があると信じており、その部分を引き受けなければならないと思っています。

 

身体を媒介にしたコミュニケーション

次に、集まれる人だけが集まってミーティングをおこない、被災地に対して一方的に支援するのではなく、連携あるいは協働して実行できることはないかという視点で考えました。

舞台人中心のアートビジョンネットワークのメーリングリストがあり、被災地の方も参加していたので、かなり詳細な被災地の情報が常に送られてくる状態でした。せんだい演劇工房10-BOXの代表の方が現状の報告をしてくださり、彼が疲れていく様子もメールの中で垣間見えました。

ダンスボックスでできることとして、3つ考えました。ひとつ目は、神楽が被害を受けていたので、神楽衆を神戸に呼んで公演ができないかということでした。関西の若いダンサーが、避難所で閉じこもっているご高齢の神楽の名手に教えてもらうことができるのではないかと。今は状況が変わっていますが、震災1ヶ月後くらいまでは、若者はがれきを片付けに行き、学校が始まると子ども達は学校に行き、高齢者だけが避難所に残り、一日中テレビを見ているというような状況がありました。ダンサーが教えを乞うことで、その人たちに「してあげる」のではなく、「してもらう」ことができるのではないか。勝手な発想かもしれませんが、そう考えていました。

ふたつ目は、ダンスボックスが借りている一軒家のレジデンス施設を使って、関西のアーティストと共に、あるいは独自に、神戸で作品をつくってもらおうと考えました。

三つ目は、新長田の野田高校との協働です。神戸は高校生のダンスが盛んな土地で、ダンスボックスが大阪から新長田に拠点を移してから高校生との関わり・ネットワークが始まり、その中で振付家の余越保子さんと高校生たちが組んで作品を作るなどしていました。そのような経緯があり、余越さんと今後どうしようかと話し合った時に、福島と神戸の高校生たちとで一緒に何かするのはどうだろう、という提案をもらいました。(※)

以上の3つを考えて、5月30日に仙台へ入りました。事前にメールを送っていたのですが、返信がなく、いそがしいのかなと思っていました。仙台へ直接行って、車で移動しながら被災地を目の当たりにし、やはり直接会ってお話ししたいと思い、アポは取れていませんでしたが10-BOXへ行きました。彼は僕のメールを読んでくださっていたそうですが、僕が提案したことがあまりにも性急すぎて、どう答えればよいのかわからなかったそうです。このように、たとえばチャリティーで避難所へ足を運んでも「いらない」と断るケースがあるなど内容の選り好みが始まっているそうで、避難所ごとにより好みの内容もまったく違うそうです。「現場の状況も把握せずに、一方的に何かしたいというのは間違っている」とずいぶんおっしゃっていました。

確かに、僕らの考えたことは性急すぎる部分もあると思いました。けれど、わからなかったという事実も大事で、行ってみて初めてわかることもあると思います。ズレをひとつひとつ解決していくためには、現地にいるアーティストやアート関係者とのコミュニケーションが取れていなければならず、メールだけではなく、顔をつきあわせて話すことが必要です。まさにダンスの表現と一緒で、身体を媒介にすることで、コミュニケーションのあり方は全然違うなと思いました。

 

アーティストが行くことでできること、アーティストに来てもらってできること

10-BOXでは、神楽の話をしました。勉強したからようやくわかったことなのですが、有名な神楽のひとつに黒森神楽という巡業型の神楽があり、その黒森神楽衆は被災しなかったものの、巡業先である神楽宿の方は被災して壊滅的な状況だったそうです。

東京のある劇場が、黒森神楽を支援するために東京の方で公演できないか打診したところ、黒森神楽の方々は「何を考えているんだ」と憤慨したそうです。「自分たちの活動は、神楽宿があるからこそで、その神楽宿がほとんど全滅に近い状況の中、我々だけが東京に行ってのうのうと公演できるわけがない。そういう心情がなぜわからないのか」と言われたそうです。そのくらいナイーブな状況であることを教えていただきながら、顔をつきあわせて話すことで、私たちの話を先方に理解していただきました。12月ごろにダンスボックスで神楽の公演をできたらいいなと考えており、今は実現できそうな状況です。

次に、「せんだいメディアテーク」へ行きました。ここで「みやぎダンス」という障がい者の方と一緒に活動しているダンス・プロジェクトの代表者と会いました。以前そこの公演で、とある天才的なダンサーとの出会いがありました。以前から一緒に仕事をさせていただいていて、被災後にはじめて連絡が取れました。可能であれば、ぜひ神戸で作品づくりをしてほしい、という話を進めています。

そして、福島県いわき市の「いわき芸術文化交流館アリオス」へ行き、高校生プロジェクトについて進めることになりました。いわき総合高校との協働プロジェクトで、神戸の高校生がいわきへ行き、いわきの高校生が神戸に来て、できれば両方で作品を発表できたらいいなと思っています。

被災地以外のアーティストが現地へ行ってできることと、被災地のアーティストに来てもらってできることの両方があると思います。ダンスボックスでは、それらふたつを行き来しながら、こちらに来てもらってできることを主に考えていきたいと思っています。

 

阪神・淡路大震災の経験が活かせる部分もあるし、活かせない部分もある

今回のような震災では、ダンスなどの表現が、このような状況で何ができるのか、どうなっていくのかわからないけれどもつきあっていくのが大事だと言われています。

阪神・淡路大震災と東日本大震災では、経験値の違いやインターネット・情報の伝達のスピードが明らかに違うとも感じています。津波の発生や原発問題という、これまでとはまったく違う状況にもあります。それでも、阪神・淡路大震災でつちかった経験は確かにあると思います。ギャラリー島田の島田さんが被災地に行ってお話をされた際、すごくリアリティーがあったので被災地の演劇人たちが納得することもあったそうです。

確かに、遠く離れている場所で、被災した現地の人のことを正確に理解できるわけがありません。けれども、それを恐れてはいけないと思います。被災の当事者ではなくとも、同じ日本に住んでいる当事者という意識と気持ちは少なくともあることでしょう。僕の場合は、一方的な支援ではなく、連帯、連携、協働というスタンスで信頼しながら仕事をしたいという思いがあります。もちろん、状況の差異があるので、阪神・淡路大震災の経験が活かせる部分もありますし、活かせない部分もあります。被災した方やアーティストと向き合うことで、実は、僕たちのほうが新しい学びと経験を授かっているのだと思っています。

 

※1 NPO法人 「DANCE BOX」 http://www.db-dancebox.org/

※2 アートNPOフォーラム http://arts-npo.org/artnpoforum.html

※3 アートNPOエイド http://anpoap.org/

※4 いわき総合高校演劇部公演『Final Fantasy for ⅩⅠ.Ⅲ. MMⅩⅠ』2011年10月9日〜10日、ArtTheater dB 神戸にて実現。

1次調査

日時補足
1995年1月 震災直後
背景や目的
震災当時は時代的に、コンテンポラリーアートを扱う組織だった活動がおこる以前であった。そのためダンサーたちはプロジェクトとしてではなく、個人の活動として街に出て、慰霊や鎮魂の踊りを踊った。
対象
被災者
内容
大谷燠氏(当時TORII HALLプロデューサー):震災3日後くらいから、保育所をまわり、舞踏とパントマイムの経験を生かして踊り遊びやクイズなどを行う。 舞踏家:個人個人で長田区菅原市場などのストリートに出て、鎮魂の意味を込め踊る。
場所
被災地各地