避難場所標識 整備
2001年3月太田幸夫さん/太田幸夫デザインアソシエーツ代表
テキスト:藤墳智史
長年にわたって、安全標識の策定やピクトグラムのデザインに尽力されてきた太田幸夫さんに、避難場所標識の整備の現状や、これからのピクトグラムが目指すべきことについて、お話を伺いました。
サインは阪神・淡路大震災の教訓を活かせているのか
日本は地震大国で可住地面積が狭く、火災に弱い木造建築が多い。また無秩序な開発により 消防車が入れない地域も多い。建物から出たら安心ではなく、外へ出てからも一刻も早く安全な場所へ避難できる、屋内外一貫の避難誘導の仕組みが必要だと強調してきました。しかし、屋内外の所轄が別の省庁で、縦割り行政だから一貫していません。
37年ほどISOの安全標識の策定に関わってきて、蓄光ラインによる非常口誘導が議題になりました。日本代表太田1人の15年に及ぶ猛反対を押し切って、各国蓄光材メーカーは10cm幅の蓄光ラインを床、壁、階段に張り巡らす国際規格を作りました。国内に導入する際、インテリアを壊さないため、太田が委員長になって大規模実験を行いました。日本だけライン幅を細く手直しできる国家規格にした結果、国内は無論、アメリカからも高い評価を得ています。
広域避難場所のピクトグラムは、阪神・淡路大震災が動機になって生まれたものです。与野党七人の総理大臣を支えた内閣官房副長官、元防災情報機構石原信雄会長が、関係省庁を集めて太田のデザインで全国統一したのです。
一貫した避難を実現するためのデザイン
地震をきっかけとして、「非常口へ、そして避難所へ」というような、一貫した避難誘導を策定する動きもありました。文部科学省、気象庁、総務省といった省庁が参加して、私もそこに毎回呼ばれました。地震のピクトグラムを私が制作して、電気機器メーカーが警告音を担当しました。文部科学省からは、子どもたちを安全に避難させられるように、緊急地震速報が発生したときに15種類ほど必要なこと全部を、1つの形で表してほしいという要求でした。大変でしたが、最終的には、ヘルメットで体をガードして、身を守るというイメージでデザインをしました。
公共のデザインが抱える問題
安全標識は以前から存在していましたが、「安全第一」のような文字が中心でした。中央労働災害防止協会では、職場の安全標識を全て太田のピクトグラムによって見てわかるデザインにしました。経産省に協力して、文字をピクトグラムに置き換えてきました。その後、公共施設の案内サインがピクトグラムで整備され、現在に至っています。
ただし、それらの多くは○、△、□の 国際規格 との整合ができていません。中央労働災害防止協会の案は 国際会議では否定されてしまいました。デザインに個性や癖が出てはいけません。空気や水に味はついていないから良いわけで、公共のデザインに対する個性を重んじる担当デザイナーの自己満足に、大きな問題があるように感じています。
個別化せず、日常に溶け込ませる
どういった危険性があるかを示すものには、国際的に○、△、□のフレームを基本としていますが、今ではこのフレームがネックになっています。地図に小さく載るとフレームの中がごちゃごちゃしてわからないのです。危険と安全のコントラストが意味を視覚化するという観点から出発して、避難の意味を赤と緑の組み合わせで作りました。
ISOの安全標識と安全色・安全標識の国際規格通則(クリックで拡大)
阪神・淡路大震災以前に、広域避難所のピクトグラムはすでにありました。1970年代はじめ、横浜駅に手前が開いた青のフレームに緑の十字が入るというものが現れ、関東エリアに広がっていきました。その後、産官学の委員会で、火災や高波などの絵柄が策定され、さらに、私が広域避難場所のピクトグラムをデザインすることになりました。その際に、既存のデザインを見せられたわけですが、利用者の立場に立てていないものばかりでした。不特定多数の日常に浸透させることは、個性化することとは全く違うステージにある。多くのデザイナーは、いまだこのことが理解できていないと感じています。
避難を日常の中へ体質化する
もっと標識の数を増やして見つかりやすくすれば、迷わず行くところがわかると申しましたが、そういった手立てが重要です。無茶なコストや労力がかかることではありません。子どもから大人まで、日常環境の中に意味が浸透して、意識の中で常に避難訓練ができているような状態になる。積み重ねによって、災害の種類に応じて適切な避難ができるようになる。急にはできないので、じわじわと地域の日常的なものへと体質化する。街灯や電信柱など、日常化するために有効活用できるものはたくさんあるはずです。
禁止からニーズを叶える標識へ
いい防災のピクトグラムを考案できたとしても、誰もが提案できる環境になってはいませんし、選定過程も透明なものではありません。本当はみんなが意見出し合って、良いものができるようブラッシュアップしていかねばならないのですが、そういう環境はまだできてはいませんね。
自分の母校の小学校で授業をしたとき、子どもたちのデザインはすばらしいものでした。命令と禁止がなく、危険を拾い出して視覚化する。自分たちの環境を安全にしようとする時、道路標識とは全く違うアプローチをして見せたわけです。ヨーロッパの大都市でも、道路標識の在り方が大きく変わってきています。運転する人が自分のニーズに合わせて走り、停める。禁止をしない、あるいは道路標識をなくすというのが、こういう街にしたい、安全な環境を実現したいという時に重要な要素になっていたわけです。
東日本大震災を経て
三陸へ視察に行ったのですが、複合災害の経験がなく、避難誘導が整備できていないところに、さらにダメージがあって、お手上げになってしまっていたと感じました。事後対策もできていないし、なおのこと、デザインに何が可能か明らかにするタイミングにいると思います。ですから、具体的な手法、手段を示し、具体化、視認効果を広めるきっかけにもなるものを示す必要があると考えています。
その後、多くの人、RGSS(Refuge Guidance Sign Total System)のジョイントメンバー(100社125名)の協力で、私がまとめた近著2冊を紹介させていただきます。
【啓蒙書】
『安全安心のピクトグラム』太田幸夫著 2016年 フォーラムエイトパブリッシング 3500円
【マニュアル】
『避難誘導サイントータルシステム』太田幸夫+RGSS参加メンバー フォーラムエイトパブリッシング 2017年3500円
日本発、国際規格へ─「非常口」ピクトグラムの制定経緯をふりかえる─
非常口から広域避難所へという一貫した避難を実現するうえで、「非常口」のピクトグラムは欠かすことができない。出口から人が出ていく図柄の「非常口」のピクトグラム日本のみならず、世界中でなじみのあるものであるが、このピクトグラムは、日本案としてISO(国際標準化機構)に提出されたものが、国際規格として採用されたものだ。この「非常口」ピクトグラムが登場した背景としては、1970年代前半に、多くの死傷者を出したビル火災が相次いだことが挙げられる(72年の大阪、千日デパート火災、73年の熊本、大洋デパート火災)。これらのビル火災をきっかけに、当時の「非常口」の漢字3文字が書かれたサインが機能していないという議論が高まり、非常口サインのピクトグラム化が検討されることとなり、ここに太田氏も参画した。
ピクトグラム化にあたっては、予算面が厳しかったことから公募に依ることとなり、およそ3300点の応募作を、識別性や心理面といった科学的な観点から審査し、1点を選定。太田氏をはじめとする専門家の修正作業を経て、1980年に日本案としてISOに提出された。
当時、日本案と同じく、出口から人が出ていく図柄のソ連案が、数年前より国際規格案に決まっており、日本案とソ連案が拮抗することになったが、太田氏がデザイン面での優位性を強調し、最終的にはソ連が自国案を取り下げ、日本案が採用されることとなった。その際、日本案の図柄の「下端を閉じる」修正が施され、これが正式な国際規格となった。
このできごとをめぐって「日欧戦争」といった見出しがメディアを飾るなど、センセーショナルに取り上げられることもあったが、これについて、太田氏は後年、会ったことがないにもかかわらず、同じ発想をしていたことが重要で、ピクトグラムが民族を超えた世界共通のものであることを示したできごとであったと、「非常口」ピクトグラムの制定過程を振り返っている。(藤墳智史)
参考文献
「地球規模の問題を解決するために直感だけでわかりあえる「感性言語」を」(『コンセンサス』2008年11月号(コンセンサス編集部、2008年)、4-7ページ)
FOMS編著、『コミュニケーションデザイン1・いのちを守るデザイン』(遊子館、2009年、76-77ページ)
「日本発、世界標準デザイン!「非常口サイン」」(『プレジデント』2015年9月14日号(プレジデント社、2015年)、89ページ)