東京発、独自の視点で震災を特集

フリーペーパー「dictionary」

1995年3月~2000年2月

桑原茂一さん/クラブキング代表・選曲家・プロデューサー

テキスト:SPREAD

フリーペーパー「dictionary」

桑原茂一さん(選曲家/株式会社クラブキング代表)

フリーペーパーdictionary(※1)での「ランチ一食募金」の呼びかけやさまざまな誌上レポート、多言語ラジオ放送局「FMわぃわぃ」のラジオ番組「神戸ONELOVE」など。継続的なメディア発信の重要性を認識し、独自の視点でとらえた震災を5年間に渡ってかたちを変えながら伝え続けた桑原茂一さんにお話をうかがいました。

 

ラジオは想像力
阪神・淡路大震災発生後、最終的に取り組んだのはラジオ番組「神戸ONELOVE」でした。ラジオについては「想像力」に一番興味があって。スネークマンショー(※2)をしている時も、想像力でどれだけみなさんを楽しませることができるか、それだけを考えていました。スネークマンショー以降も、あらゆる場面で想像力を大切にものづくりしています。

 

はじめは、ランチ一食募金
僕は、戦争を経験していません。大勢が一度に亡くなるとか、焼け野原になるとかを想像したことがありませんでした。だから、阪神・淡路大震災の様子がテレビに映ったときのショックはすごかった。ちょうど食事どきで、食事もできなくなり、自分に何ができるんだろう?なにかしなくちゃ!という衝動で混乱してしまいました。当時も今もdictionaryは隔月刊行ですから、情報的にスピード感がないことがあの時はメディアとしてもどかしかった。で、ともかく、寄付をしなきゃと思い、どうすればいいんだろうと考えましたが、したことがないからわからない。そこで、お昼を一食我慢してもらうのはどうだろうと思って「ランチ一食募金(※3)」を呼びかけました。after311以降の今ならガッと反応がくると思うのですが、当時の反応はとにかく鈍かった。とはいえ、出来ることから取り組みはじめました。

 

 

お金を持って、現地へ
dictionary誌上では「阪神・淡路大震災レポート」などを掲載していましたが、ダメだったのは現地に足を運んでいなかったこと。大阪の友達や知り合いに情報を送ってもらってはいたのですが、どこか、かみ合わないんですよね。何回か寄付金を持って行ってもらったり、送ったのですが、その後どうなったのかという手応えがはっきりしない。このままずるずる続けていても、dictionaryそのものの主体がわからなくなってしまうからと自分でお金を持って行きました。
ところが現場で話を聞くうちに、思っていたイメージとは大きく違い、ずいぶん残念な思いもしました。寄付金がシステム化されたルールで淡々と処理されている彼らの話からは心に迫ってくるものが何もなかった。あのときはボランティア元年だといわれましたが、僕らにはこれまでそうした経験もないし、そういう活動している人も近くにいない。ボランティアというイメージそのものを誤解していた。つまり人助けをすることは、マザー・テレサのように、一生を博愛主義に捧げる精神が必要なんだと…、もしそこまでできないんだったらやらないほうがいい、そんなムードが我々の周りには少なからずあったんです。

 

ラジオ「神戸ONELOVE」設立の経緯
寄付先に関してはあたればあたるほど困ったなと思っていたところ、ラジオの話にもどるんですけど…そのときにお会いした方から、神田神父という方が代表を務めておられたコミュニティFM「FMわぃわぃ」の存在を教えてもらいました。「FMわぃわぃ」は、神戸の長田にあります。長田ではさまざまな人たちが身を寄せあって暮らしており、8カ国語放送がおこなわれていました。まずそのことに驚きました。この狭い地域に8カ国もの人がいるということ、しかもひとつの放送局で8カ国語放送がおこなわれているという事実もショックでした。で、このラジオの設立の経緯をお聴きして感動したのです。というのも当時、被災された方々への救援活動は素早くおこなわれていました。水や食料がどんどん届くようになっていたのですが、そうした8カ国の人たちへのヘルプはどうも後回しにされていたようでした。そうした状況の中、在日の方のネットワークが見るに見かねて、大阪から1km四方に電波が出せるラジオで連絡網を作り始めたのです。
「何時に、どこにお水が来ますよ」というような情報を彼らの言語で発信し始めた。それまで後回しにされていたひとたちが不安な状態でいるときに母国の音楽を聴けば彼らの心がどんなに心安らぐことだろうとラジオというメディアの存在に改めて感動したのです。想像力を喚起させるラジオってすごいなと思ったんですよね。これまで自分がラジオ番組をつくってきた経験とそれはしっかり繋がったんです。思わず寄付させてくださいと放送局にお願いしました。で、その時、寄付もありがたいけど番組をつくってくれないか、という話になってじゃ、タイトルは「神戸ONELOVE」にします。と、そこから番組を制作することになったんです。

 

 

毎日6~8時、2時間番組
その興奮は同時に、東京・渋谷でコミュニティFMを立ち上げることに繋がっていきました。そこでふだんからdictionaryを応援してくれているクライアントの方々に相談しに行ったら、渋谷に放送局ができるのなら協力するよ、と言ってくれました。まだ、時代にはまだ多少バブルな空気が残っていたのかもしれませんね。いざはじめてみると毎日6~9時、3時間番組をすべて僕らがつくるのは、とても大変でしたが…
その「神戸ワンラブ」はコミュニティーネットですが、最大で12局ネットくらいまで広がっていきました。しかしコミュ二ィティー放送は、どこもお金がないから、まず手弁当で現地取材をして私自身で番組を作り、それをまず渋谷FMで流し、同じ番組を他の局へ着払いで送るという感じでした。現地取材は多い時は2ヵ月に1回、時間がないときは3ヵ月に1回、僕が現地に行って7~8人にインタビューをおこない編集には大変時間が必要でしたね。ただ番組の内容はどうしても私が作るので…まじめに、真剣に重い話をした後に「おらは死んじまっただ」とかを選曲するから、泣いていいのか、笑っていいのかわからない。たぶん、相当シュールな内容になっていたかもしれません。それでも、最初のころはみんな泣きながら聴いていたんだと思います。
勢いで二年ほど続けましたが、ボランティアで番組つくるのはやはり大変でした。私の会社がもうかってないのに時間かけて番組つくって何やってんだ、というスタッフから声も聞こえていたので、長く続けることはできませんでした。当時から私は渋谷FMの方々には伝えていたのですが、震災で何があったのか?を考える防災番組を大事にして常に繰り返し流すべきだ、と…。私自身としては震災を体験した方々の話を聞かせてもらい、番組をつくらせてもらって学んだことは本当に大きかった。人間は小さいものであることを、これでもかこれでもかと痛感させられましたから。

 

 

内容は、美談ばかりではない
インタビューは実に多彩でした。たとえば、インタビューに、びっくりするほど高いヒールを履いた全身黒装束で、身長が1m90cmくらいあるパンクのお姉さんが突然現れたことがありました。彼女は元バレーボールの選手だったのですが、高校の終わりに突然自分の意志でやめたそうです。しかしお母さんは、彼女をプロのバレーの選手にしたくて子どもの時からそういう教育をしてきたそうなんです。にもかかわらず、娘が相談もなく勝手にやめてしまったから、お母さんは怒って3年くらい口を利かなかったそうです。ところがそんな二人が震災の時に一緒に閉じ込められてしまって何日間も外へ出られなかったそうです。助けが来なければ死んでしまうという状況下で、お互いがポツリポツリしゃべりはじめたそうです。なぜバレーボールをやめたのか、なぜ母親は娘を許せなかったのか、これまで話さなかったことを語り合ったそうです。お互いに、元気を出すために話すしかなかったのでしょう。ふたりでワンワン泣いてお互いの思いをさらけ出してそれまでの口もきかなかった関係がとけた。震災のお陰でふたりは本当の意味で親子になれたそうです。震災でひどい目にあったけれど大事なものも得たというお話。
そうかと思えば口も利かなかったお隣同士が震災で助け合うようになって、必死でがんばって復興したら、もとの口をきかない関係にもどってしまったりとか、空き巣や泥棒、暴力的なことなど、ネガティブな話もいっぱいありました。阪神・淡路大震災から16年(※4)。表面的には復興したようにみえますが、人の心の中はそう簡単にはいかないと思います。

 

語られないけど、評価していくべきこと
たくさんの方が亡くなって、マイナスのエネルギーが溢れましたが、そのマイナスのエネルギーと同じだけ、プラスのエネルギーがあるだんということをインタビューから教えられました。そうそう、中学生3年生くらいの子がボランティアとしてやって来て。そんな子供に手伝いをさせるわけにいかないから帰らせようとするのですが、帰らない。なんで?と聞くと、その子は自分の家庭からスポイルされていた。家族はいても家族の関係はなく、家出するしかない状態だったんです。家族からは見捨てられた彼が、神戸でボランティアをするようになって新しい家族ともいえる人々に出会った。その子たちはそれまでなかった貴重な体験を積んだ大人に成長したでしょう。震災でボランティアのノウハウを覚え、地元に帰ってそれを生かした活動を実践する…そういう意味では、震災からポジティブなエネルギーが生まれたと思うんですよね。そういうことは語られないけれど、もっと大事に、ちゃんと評価していかなければいけないことだと思っています。

 

 

社会からスポイルされた人たち
あの時、社会のはみ出し者とか嫌われ者とか、よろしくない人たちも非日常空間へどっとやって来ました。悪いことをする奴もいるし、どうしようもないこともいっぱいあったのですが、社会からスポイルされた人たちの中には、ルックスは悪そうなんだけど実は寂しがりやだからやって来た、という大人もたくさんいるわけです。その人たちは、お年寄りが運べないものを運ぶだけで涙を流して喜ばれるなど、初めて自分を認めてもらえたという経験をする。刺青など、お年寄りが怖がるようなルックスの人たちも、中身は違うということを実感していましたね。外見で人を判断することがどれだけ間違っているか、というようなことを70代過ぎの人たちが口を揃えて言ってましたね。私がインタビューしたボランティアの人たちは、人のために何かをしたと表現する人は1人もいませんでした。「すべて自分のためにやりました」「これまで生きてきた中で、これほど自分のためになったことはありません」とだれもが言っていました。本来、人間は利他性を重んじる生き物なのだと思うんですよね。

 

もっと、やり方があったに違いない
現地に行ってインタビューをしてわかることと、レポートをもらって記事を作ることとはまったく違いました。現場に足を運んで、自分が体験したことでしか発言はできないということです。ラジオを一生懸命つくりましたが、僕たちには何もできなかったという思いの方が強いし、もっとやるべきことや別の方法があったに違いないと今も思っています。

 

 

After311
東日本大震災に対してようやくできたことは、奈良美智さんの作品が表紙になったdictionary140号(※5)での特集でした。私の信頼する建築家が具体的な仮設住宅の提案をしてくれました。どの提案もその気になればつくれるものばかりなので、今後の震災時に生かして欲しいと思っています。スポンサーを見つけにくい時代なのでdictionaryを継続していくのは容易ではないですね。
ただこれまでのように企業におもねるばかりではなく、これからは自分が価値を決めるんだということを伝えていきたい。311以降、国から自己責任で生きていけ!と断言された訳だから、みんなが自分で価値を決めることに向かってほしいと思っています。稼いだお金を自分のためにしか使わなかった人たちが、誰かのために、誰かの夢や取り組もうとしている何かに対して自分のお金を出すことで、価値は自分が決めるということです。わかりやすくいうと、たとえばCDは2,500円で売られていました。クラシックのオーケストラも、1人でつくったものも2,500円。2,500円という価値はその業界が決めたのでしょうけれど、残念ながら作品に対する価値はついていなかった。自分ではない誰かがつけた価値を甘んじて受け入れることでしか欲望を満たせなかった。音楽CDや音楽ライブに自分で価値を見極めるのはとても覚悟のいることです。お金の有無ではなく自分でその音楽に価値をつけることができれば、その価値のためにがんばって働こう、となる。
汗水流して働いた中から私たちは国に税金を持っていかれます。それは国民の義務だからとこれまでは誰もNOとは言わなかった。しかし自分が価値を決める時代はそのことを真剣に考えるべきです。企業が個人の消費を動かして来ました。我々は幸せだったのか?が問われていると思います。考えることを止めない。それがafter311以降、私は一番大切なことだと考えています。自分が唯一の価値を決める。そういう時代に来ている。いろんなことの価値を決めるのは、すべて同じことだと思うんですよね。

 

困った困った
いい本があるんです。高橋秀実さんの「からくり民主主義」。最後に村上春樹さんが「僕らが生きている困った世界」という解説を書いておられ、それもまた素晴らしい。高橋秀実さんは、どこまで掘っていくんだというくらい、徹底的に調べつくす人。根っこを見つけようと、深く深く掘り下げていかれます。この本を読むと、阪神・淡路大震災もそうだったし、まさに起きている福島の問題も、ただ困った困ったとしかいいようのない状態なんです。困った困ったと言いながら、何がそこでおこなわれているのか?実際には何がおこなわれているのか?を徹底的に、非常に冷めた目で観察されたうえ、人間的なユーモアも含まれているのがこの本のすばらしさ。
もとにもどれないこの時代に自分たちは生きているという認識を持って、今までやってきたことやこれまでの生活をすべて投げ捨ててでも、本当にあるべき生き方に向かう気のある人だけが、困った困ったといいながら考え続けるしかないんじゃないかなぁ。とても時間がかかることだし、生き方そのものを問われている気がします。

 

 

※1 1989年創刊、日本の「フリーペーパー」の草分け的存在。アーティストやデザイナーら幅広いジャンルのクリエーターに発表の場を提供してきた無料誌。http://dictionary.clubking.com
※2 1976年~80年に放送された伝説的な音楽番組。
※3 震災直後のNo.42号(1995/3)から始めた「昼食代1,000円を我慢して、募金してください」という呼びかけ。

※4 インタビューは2011年に収録。
※5 -特集After 311-『 ~仮設住宅はこれからの(夢の)住宅か?~』建築家からの提案:遠藤幹子、遠藤治郎、荒木信雄、伊藤暁



 

1次調査

日時補足
フリーペーパーdictionary 043号(1995/5)から057号(1997/8)までの14回(約二年間)
背景や目的
日本の「フリーペーパー」の草分け的存在として、アーティストやデザイナーら幅広いジャンルのクリエーターに発表の場を提供してきた無料誌「dictionary('89年創刊)」。震災直後のNo.42号(1995/3)制作時にはまだ詳しい被災地の状態が把握できていない時点であったが、表紙に『阪神大震災被災地の方々への救済のお願い。ディクショナリーでは「ランチ一食募金」を募ります。出来る事から始めましょう。』と掲載し、支援協力をなげかけた。阪神淡路大震災レポート、募金の集計報告、送金先レポート、現地で行動を起こした人物や募金をした人への生の声を聞くインタビューなどリアルなレポートを毎号掲載。dictionary誌上で展開していた内容を1998年4月からはラジオ番組「神戸ONLOVE」として誕生させ全国11局ネットで放送。桑原茂一氏の独自の視点で捕らえた震災を、継続的なメディア発信の重要性を認識し、5年間に渡って伝え続けた。
対象
全国のdictionary読者、被災者
内容
誌面でお昼の食事代1000円を我慢して募金してくださいという「ランチ一食募金」。結局は、客観的な立場で物事を考えて動いているうちは、ほとんど動いてないに等しいんじゃないかと思ったため、集まったお金を桑原氏が持って神戸に行き、長田区にある多言語ラジオ放送局の「FMわぃわぃ」に寄付。同時に、当時桑原氏が番組をやっていた渋谷FMとFMわぃわぃをつなぐ、ということを開始。被災者や、ボランティアで来てる人たちにインタビューをして、それを編集して両方の放送局で流した。被災地でその日、ある音楽が1曲流れることによって、それまでうちひしがれていた人たちが癒されたり、元気になったという。
発起人・主催団体
桑原茂一氏(選曲家/プロデューサー/株式会社クラブキング代表)主宰のプロデュースカンパニー「クラブキング」
場所
dictionary誌面、SHIBUYA FM“VOICE”(東京都渋谷区 78.4MHz)、FMわいわい(神戸市長田 77.8MHz) 、他全国の放送局(9局)