神戸・東部新都心 / HAT神戸 開発計画
1995年3月小林郁雄さん/まちづくり株式会社 コー・プラン
テキスト:中野優神戸・東部新都心 / HAT神戸 開発計画
小林郁雄さん(まちづくり株式会社 コー・プラン)
神戸市の復興計画において、HAT神戸の開発計画はシンボルプロジェクトのひとつだとされています。震災前からの計画が、震災を受けてどういう経緯で現在の姿になったのか、シンボルプロジェクトとしてどんなことを目指していたのか、小林郁雄さんにおうかがいしました。
震災前の、HAT神戸の開発計画
バブルがはじける直前にハーバーランドが完成しました。1986年ごろから計画を始め、普通なら10年はかかるところを1991年までの5〜6年間でつくっていきました。進むスピードがとても速く、大変だったことを覚えています。
ハーバーランドが完成したことで、西の都心部が完成、三ノ宮を中心に神戸駅周辺が整備されました。都市のバランスとして、東にも都心部が必要なのではという話になり、HAT神戸の開発計画がスタート。神戸製鋼と川崎製鉄があった最も古い埋め立て地が現在のHAT神戸で、明治初期に埋め立てられ、一番古いとされる製鉄所がありました。ハーバーランドが完成したころには、神戸製鋼も川崎製鉄も別の場所に新規工場を持っており、工場から出る煙の問題などからまちの真ん中に製鉄所は必要ない、この地区に工場機能を持たせることはやめよう、ということになりました。跡地をどう活用するかという話になったときに、うちの事務所がハーバーランドの開発計画をおこなっていたため、神戸製鋼から引き続き依頼されたことが、HAT神戸の計画にかかわったきっかけです。
専門は、ウォーターフロントのアーバンデザイン
僕の修士論文は港湾地区の計画で、ウォーターフロントのアーバンデザインがテーマでした。仕事として、ポートアイランドや六甲アイランドも計画しました。けれど実際には、いずれも周囲が港湾地域だったので、場所は海の中にあるけども水に接しているわけではありませんでした。
ハーバーランドの開発計画もおこないましたが、海沿いは臨港地区で立ち入り禁止地帯で、十分に計画できませんでした。本当の意味で、海沿いの開発計画をスタートしたのは、HAT神戸が最初です。この計画は1992年からスタートされ、1994年の年末あたりには神戸市も参加。東部新都心の整備をどうしようか検討する中、西の都心部ハーバーランドが商業施設になったので、東の都心部は業務施設やオフィス系にしようという流れになり、企業誘致をおこなうこととなりました。そのためにはまずイメージづくりが必要となるため、WHO世界保険機構の神戸センターを誘致、健康産業を呼ぶことから始めました。また、海際は臨港地区なので住宅を建てることができません。その後、1994年ごろに中心部の大きなスペースの北側は都市的開発、南側を港湾的な開発にしようと計画を進めていたところ、1995年1月を迎えることになりました。
震災が発生後の、HAT神戸の計画
当初は、1995年の3〜4月ごろから基本計画の委員会がスタートする予定で、おおまかな基本方針が決まったタイミングでの被災でした。その方針では、都市の骨格として、中心部に大きな道路を計画、北と南のエリアを開発していくと決めていたので、震災復興に向けてそのまま進んでいくことになりました。けれど、震災という状況を考慮し、南側に業務施設やオフィス系を呼んでくるのではなく、復興住宅の建設へシフト。震災後は、復興住宅が圧倒的に必要になることが分かっていたのに都心部にはスペースがなかったため、必然的にHAT神戸のスペースが住宅用地として使用されることになったといえます。
ウィークリーハウスをやめて、復興住宅を
震災前は、長期滞在型ホテルとしてのウィークリーハウスを800戸ほどつくる計画になっていました。震災発生によってそれらがすべて変更され、当初の予定の8倍くらい、全6500戸の復興住宅が建てられる計画になりました。結果的には必要とされていたことなので、よかったと思っています。
また、国道から北側の神戸製鋼や川崎製鉄本社があった界隈には、神戸にしてはめずらしく工業地帯があり、震災前は、そこをすべてあわせた土地と、70haほどある海沿いの神戸製鋼と川崎製鉄の土地、真ん中の神戸市所有の土地を区画整理する計画でした。工業専用地域の臨港地区の容積率200%のところを、住宅地は200%、最低400〜600%に引き上げて商業地域と住居地域にすることで、地価が10倍くらいになり、利益が生まれます。その開発利益を北側の灘駅、周辺の密集市街地地域に使う予定で、南側の地域で生まれる利益を北側の密集市街地に使い、全体としてHAT神戸にしよう、という計画でした。
震災による方向転換
けれど、震災が発生。北側の開発をおこなえば10年以上かかってしまい、被災者のための住宅が間に合わないことに。急きょ、南側の地区に住宅を作ろうというプロジェクトに変わりました。そして、震災というきっかけがあったため、中心部だけは世界的な防災拠点にしようということに。けれど、学校や美術館の位置などは当初の計画から変更されませんでした。
本当は、基本計画と基本設計に3年くらいかけて取り組むところですが、大枠しか決まっていなかったこともあり、それまでの計画をいかしながら震災復興の方向へシフトしていきました。もう少し計画が進んでいたら、変更はむずかしかったと思います。
南側は臨港地区で、本来なら研究開発施設や交流施設が建設されます。震災後にはとにかく復興住宅が必要だったので、住宅が建てられることになりました。
中心部は、バブル期以降最大のプロジェクト
兵庫県が資金を出し、中心部にはJICAや病院などを誘致。HAT神戸全体を、被災地のシンボルプロジェクトとして位置づけることになりました。住宅や阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターのような大きい施設をひとつの地域につくるなど、目に見える復興事業としては、バブル期の後だったことや他に場所がなかったこともあり、HAT神戸が唯一の存在になるのではないでしょうか。
普通、全体の計画や景観誘導、ランドスケープや防災計画などをおこない、完成するまで15年ぐらいかかる大規模なものなのに、とても短期間で完成できました。結局、5年ぐらいだったと思います。
いかにして、震災を語り継ぐか
機能は展示施設だけというところが割合多くある中、阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターは震災後の記念施設として研究機関+展示施設という複合的な用途を持つ、めずらしいスタイルです。常勤研究員がはたらき、展示と資料センターだけでなく実際の研究活動をおこなって震災の記憶を「伝える」役割をになう拠点として機能しています。
いかにして語り継ぐかという重要なことが薄れないよう、どうすれば災害時の経験をわすれないでいられるか、復興事業を通して考える必要があります。例えば、明治時代の三陸津波の被害がしっかり伝わっていれば、東日本大地震の被害状況は変わったのかもしれません。津波の話は、今回の東北大震災をきっかけに今後も伝わっていくかもしれませんが、関東大震災で火災が発生し、10万人もの人々が亡くなった事実が広く伝わっているかというと、そうともいえない現状があります。
阪神・淡路大震災では、家が倒壊しました。新潟では中越地震での経験をもとに、分散的に被害があった場所をつなぎ、コリドールというメモリアル街道をつくろうとしています。
神戸では被災地が集中しており、分散することなくHAT神戸につくることができました。今後、東北がどうなっていくのか、注意深く見つめていく必要があると思います。