関西建築家ボランティア

1995年1月24日〜1996年5月,2011年3月

木村博昭さん/Ks Architects

テキスト:小原淳

「関西建築家ボランティア」

 

木村 博昭さん(Ks Architects・京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科教授)

阪神・淡路大震災発生後、関西の建築家に呼びかけて「関西建築家ボランティア」を設立し、大震災発生後1週間たったころから2~3ヵ月間、家屋調査ボランティアを実行。さらに東日本大震災をきっかけに「関西建築家ボランティア」を再起動し、継続的に活動されている木村 博昭さんにお話をうかがいました。

 

まずは応急的な活動を

「72時間以内、緊急人命救助」という医者の役割がありますが、建築家の出番はそれからの話です。長期的にさまざまな活動をおこなっていたというより、どちらかといえば応急的な活動でした。

阪神・淡路大震災当時、1週間すぎたころから被災地の状況がわかりはじめました。連絡網をつくって知人に声をかけ、何ができるだろうと集まって話し合いました。

まず、家屋調査のようなことをおこないました。行ってすぐに直せるわけではなく、相談にのるだけでしたが、プロフェッショナルの立場において「2階のこのあたりは危険だから、こっちに移ってください」というようなアドバイスはできました。震災発生後、3ヵ月間くらいはほぼ1週間おきに集まって、話し合いを続けました。5月ごろ、自宅の被害を心配する方々から「家を見てほしい」という依頼が次々に舞いこみ、我々は見に行って相談にのりました。家のことがよくわからない住民の方々の心配や不安に耳をかたむけることでも、メンタルケアになると実感しました。

 

関西建築家ボランティアの発足

当時は、ボランティアという言葉が普及しておらず、ボランティア活動もほとんどありませんでした。それでも声をかけると、いろんな人たちが「協力したい」と集まってきたのです。

メンバーは、それぞれが仕事を持ちながらの活動となるため、依頼された場所へ行ける人が行くという感じでした。その人だけが行くのは大変なので、2~3人のチームで行って見るというスタイル。神戸は甚大な被害を受けていましたが、大阪も、神戸から西の姫路あたりも大丈夫だったので東西両方向から行くことができました。車で行ける距離でもありました。

1日ですべてを見てまわれないものの、午前中2件、午後から2件ほど見ることは可能でした。どんどん依頼が来たのでみんなで手分けして、トータルで2000~3000件くらい、1グループあたり何百件も見に行ったことを覚えています。

現地に足を運び、見てまわってすぐ帰ることはなく、1時間ほど話しこむことがほとんどでした。その場で直すことはできないため、ほとんどがメンタルケア。「このあたりは危ない」「基礎が割れているから気をつけて」「地盤がやはりこわい」「擁壁が倒れそうだから地震が起きたらすぐに逃げてください」というようなことを話していました。見える部分、わかることだけでもという想いで。

組織として家屋調査などを受けた場合、「だれかが助言した後、その建物がつぶれてしまったら…」と背負う責任にとらわれて、動けなくなりがちです。そういう意味でも我々のような私設団体、プロフェッショナルの集まりは動きやすかった。非常時には、建築士の資格を持つ個人としてアドバイスしていくことがよいのだろうと思います。

 

地域のまちづくりをサポート

それぞれが仕事を持っていたため、被災地域全域をサポートすることはやはり不可能なので、ひとつの地区に深く関わっていくことになりました。活動をはじめて3ヵ月ほどたったときでした。神戸・魚崎の小学校で緊急対策本部のまとめ役をしていたメンバーの知人をサポートする格好で、さまざまな活動をおこなうことになりました。

魚崎地区は行政支援やコンサルの支援が行き届かない、いわゆる白地図地域でした。魚崎地区にまちづくり協議会を発足させる為にサポートをおこない、「あのころの、まちのここがよかった」と話し合うフォーラムや復興イベントを企画したり、「3軒集まって家を建てると補助金が出ますよ」という具体的な支援方法を伝えました。

メンバーは仕事を取るためではなく、純粋な精神で「そういう再建方法なら我々はサポートできますよ」と呼びかけていたのですが、住民の反応はほとんどありませんでした。とにかく住むための場所が早くほしい、とプレハブ住宅に傾倒していったのです。

3ヵ月をすぎると、復興という言葉を聞くようになりました。解体がはじまり、いい町並みや古い家、つぶさなくていい建物までもが壊され、仮設のクラブ棟みたいなものがどんどん建てられました。変わっていく町並みに対して提言しようと、震災の年の夏すぎまで1~2週間に1回、テントでまちづくり集会を開いていました。9月からは学校がはじまり、テントもなくなって、1年ぐらいは集会場で開催。2年目もそういう相談を受けていました。

まちづくりを専門とするメンバーがサポートしていたので、そのまま仕事につながりました。マンションをひとつふたつ、魚崎市場の計画も決まり、魚崎の再建を完成まで支援しました。

また、関西建築家ボランティアの中では「灘の酒蔵を復興させる会」というグループが展示や地域のサポートをおこなっていました。メンバーがそれぞれ、別々の活動をするというスタイルもあったのです。

 

 

関ボラ基金

神戸市から委託を受け、魚崎地区の現地調査にも行きました。その際、関西建築家ボランティアに補助金がおり、「HAL基金」からは魚崎地区のまちづくりの活動に対して100万円もらいました。補助金の残りは、ストック。東日本大震災の際にはそれをベースに「関ボラ基金」として関西建築家ボランティアを再起動、被災地支援のための費用として使用しています。

関西建築家ボランティアは私設団体ですから、それぞれが仕事をもっている中、各自で自由に動いています。本当の意味でのボランティア意識はありますが、団体意識はありません。それでもネットワークや信頼関係が根本にあり、この人とこの人へ声をければみんな集まってくるな、ということは明白でした。

 

関西建築家ボランティアの再起動

当時はE-mailがなく、電話やFAXで会議の開催通知や情報をやりとりしていました。現在はもっとラフで、東日本大震災では「立ち上がらなければ!」と話がまとまり、メールアドレスがわかっている人たちに連絡をして再起動したのです。

台湾の921大地震や新潟県中越地震発生時など、なんとかしなくてはという想いから「このお金をいつ使おう?」という議題がよく出ていました。お金は150万円くらい残っており、それを元手に動きましょうと呼びかけたわけです。阪神・淡路大震災をきっかけに発足した団体が再起動して立ち上がりました。

とはいえ、すぐに行って我々がどうこうするということはできません。「1日程度でできることはないか」「スムーズに後方支援する方法はないか」と模索していたところへ、東日本大震災の被災地に入った関西建築家ボランティアのメンバーである宮本 佳明さんから「大工さんが被災していて、道具を流され、仕事をしたくても家も何もない」と報告がありました。それなら、まずは大工さんを支援しようということになったのです。

建築にたずさわる我々にとっては、建築に関する支援が一番。赤十字や他団体への募金では、集まったお金を平等に扱わなくてはならず、そのお金がどう使われているのかわからないうえ、成果も見えません。けれど、大工さんへの支援なら成果が見える。さっそく大工道具を5セット(20万円くらい)そろえて被災地へ送りました。急いで送る必要があったため、Twitterなどで得た情報を頼りにしました。

その大工さんたちは生活のすべてを津波で流されていたため、道具を届ける住所がありませんでした。そこで、家や道具が流されてしまった大工さんの面倒を見ている「中村家」という岩手県釜石市の旅館にお願いして、大工さんたちに取りに来てもらうことに。

そういうネットワークは、各地にぽつぽつ存在します。釜石市の旅館「宝来館」の女将さんも、自ら被災しながら、まわりの人たちをまとめています。非常時にはキーパーソンを見つけて動くのが、最も確実な方法です。

 

一時的な支援ではない復興支援をめざして

その後、木材の輸入・販売をされている株式会社テツヤ・ジャパンさんの協力を得て、4月か5月に「復興ドーム」という合板でつくれる小屋を建てるため、1泊2日で被災地へ行きました。仮設住宅の建設が各地ではじまっており、合板が品薄で使えない時期でした。ドームの費用は無料でいいです、とテツヤ・ジャパンさんはおっしゃっていましたが、材料代として合板を買い、その費用で被災地の大工さんを雇いましょうということになりました。

当初、大工さんたちは仕事をやめると言っていましたが、大工道具と「復興ドーム」を見てやっぱりやってみよう、という気持ちになってくれました。我々にはそういう小さなことしかできません。大きなことなんて絶対できないと考えています。

第2陣として、水谷 嘉信さんとテツヤ・ジャパンさんが被災地へ行きました。漁業組合が「倉庫が要る」と言っていたので、8畳分くらいの倉庫を2棟、真ん中をデッキでつないだような形でつくりました。もちろん建築家の仕事ですから、仕上げはきちんとしています。

個人をサポートすることも大切ですが、漁業組合のようなところを支援する方がよいのかもしれません。一時的な支援ではなく、仕事が成り立つようなもの、2次的3次的に広がりを起こせるようなものがいい。阪神・淡路大震災のときには個人を支援する一方で、産業をどう再生していくのか、壊滅的な被害を受けた長田地区のケミカルシューズ業をどうするのか、という話が問題になっていました。仕事は生活に直結しています。仕事が成り立つような支援方法がいい、という想いが当然あったのです。復興イベントを一時的におこなうのもよいのですが、それだけではずれている印象があります。復興支援は継続的におこなわれるべきだと我々は思っています。

 

兵庫・芦屋の復興プロジェクト

芦屋の公団が進めていた、南芦屋に新しい住宅をつくるプロジェクトでは集会所を担当しました。芦屋市営・兵庫県営復興住宅が完成するまでの1~2年間、仮設住宅に住んでおられたのは高齢者が多かった。復興住宅に入居する方々は、当然のことながら面識がありません。復興住宅の工事中に集まってもらって「集会所はこんな風になりますよ」などと説明会を開きました。

また、引っ越していく方々をはげますために、アーティストたちと一緒にアートで癒すことを目的に南芦屋でさまざまなアートイベントをおこないました。各棟の入口にアーティストによる作品を展示するなどのアートプロジェクトは、SKB(まちづくり事務所)の橋本さんという方がプロデュースされていました。僕らは建築家としてサポートしながら、月に1回くらいのイベントに参加。住宅が完成してからも1~2年は継続しておこなっていました。

 

自邸について

1994~1995年、兵庫・西宮にある自邸の工事をはじめたころに阪神・淡路大震災が発生しました。年末に基礎工事が終わり、年明けに工事をはじめようとしていた時期にあたります。わが家は高台に建っていて六甲山のふもとまで眺めることができ、ふもとから南は大阪湾の方まで平らになっていました。あの瞬間、まわりの建物はつぶれ、ふもとのあたりはかなりの被害を受けていました。一度揺れて、山のプレートに衝突、激しい揺れもどしがあって被害が拡大したのだと思います。阪急電鉄の高架も倒れていました。

しばらく工事を止めていましたが、7月に再開。阪神・淡路大震災と同じ年の8月に完成しました。当時、大工さんは屋根や瓦の修理に飛びまわっていたため人件費は高価でしたが、幸いなことに職人さんが集まりました。地震の被害が西の方よりましだったからかもしれません。

当時はプレハブ住宅が何とか完成していたころなので、最初の復興住宅と言える貴重な例だったと思います。以後はずっと住み続け、周囲が復興していく様子を見てきました。

 

関西建築家ボランティアの活動休止

応急的な支援を要する時期をすぎ、半年ほどたつと復興期に入ります。

活動がプツリと切れたわけではなく、各自の仕事もあって、魚崎地区でのミーティングは1月に3回だったのが2回、1回と減っていきました。ネットワークはずっと残っていますが、ボランティアというのは要望があって自発的に動くわけですから、要望がなくなれば自然と消えていきます。

ひとつの区切りだといえるのは、5年目くらいに行政から要望があって調査書をまとめたこと。関西建築家ボランティアが果たせたことの総括をおこないました。

おそらく5年目くらいで、ボランティア的に活動すべきことは終わったかなという実感があります。その間、阪神間でいくつか住宅を建てるなど、関西建築家ボランティアのネットワークの方々はそれぞれに復興住宅の仕事をしていました。僕も、住宅を何件か建てましたね。

震災を通して、設計者・建築家の職能とは何だろうと考えました。いち早く被災地へ駆けつける人もいます。単にデザインすることや復興事業をになうだけでなく、建築家の役割、専門職の職能として役割を定義づけなければ、社会から見放されてしまうような気がします。

 

関西建築家ボランティアの運営

僕たち自身、震災以後は仕事がとまり、収入がなくて大変でした。

当時、関西建築家ボランティアの相談業務は手弁当。材料費などしかもらえず、交通費は自分持ちで、会議の際に1000円ずつ集めて、電話代などにあてていました。現在はさまざまな基金がありますが、当時はほとんどなかったのです。

東日本大震災の支援をおこなうにあたって日本財団に助成金の申請をしたところ、意外にも要望がすんなり通りました。今は、その助成金で被災地へ支援に行っています。とても地道な活動です。

関西建築家ボランティアはプロフェッショナル団体なので、基本的に学生は参加していませんでした。けれど東日本大震災発生後は大工さんと「50万円でできる仮設住宅」の最低限の補強や囲いについて考えたり、実際に大工さんを呼んで、みんなで仮設住宅を考えようという50万円プロジェクトに学生を巻きこんでいます。継続的なイベントなので100万円の助成金もおりました。2棟は建てられるので、関西建築家ボランティアネットワークに呼びかけ、コンペのようなものも開催しました。

 

関西の建築家ネットワーク

メンバーのみなさんには、関西建築家ボランティアネットワークの活動やコンペに興味があったり、自分にできることがあれば参加してもらっています。ネットワークはメーリングで結ばれ、現在は40人くらいが参加されています。

メンバーは、何か事業があって動くわけではありません。たとえば宮本 佳明さんは、ほとんど個人で動いています。被災地から要望や情報をメールで書き送ってくれるので、僕は財団に申しこんでお金を用意する…という風におのずと役割分担ができています。

発足当時と再起動時とでは、関西建築家ボランティアはほぼ同じメンバーでした。東日本大震災の折にも1週間後には数名で集まって相談、「やっぱりやらなあかんちゃうのか」ということになったのです。HAL基金を東北支援に使う前に確認する必要があり、その連絡のためにメール網をまず整備。それから、関西建築家ボランティア会議を開催しますとお知らせしました。

ふだんはみんなバラバラですが、何かあった時に再起動するための準備があります。ボランティアとは何か、ということもわかっています。プロフェッショナルとはそういうものです。

 

阪神・淡路大震災と建築家像

当時、紙管を用いた仮設の住宅や教会の集会所をボランティアとともに建設した坂 茂氏は、建築家の役割やイメージを変えたように思います。それまでは丹下健三氏、安藤忠雄氏、ファッショナブルな妹島和世氏などといった建築家のイメージがありましたが、明確なクライアントを持たないボランティア的な建築家、社会性をもつ建築家像はそれまでほとんど見られませんでした。阪神・淡路大震災をきっかけに、坂氏のような新しい建築家像が出現し、我々も社会性を重視した活動を行っていました。

過去に地震は何度も起きていましたが、そのたびにおこなわれたのはまちづくり、都市計画をどうするか、という都市計画の話でした。

いま思えば、これまでにそのような人物がいなかったことが不思議です。火山の噴火など、自然災害が起こるたびに「自分たちにできることは?」と昔の人々も考えていたはずなのです。ただ、実際に声をあげて動く人がいなかった。関西建築家ボランティアは、「やろうじゃない」とみなさんに電話をかけただけ。そこからすべてがはじまりました。「何かしたい」と人がどんどん集まってきた、純粋なボランティア活動でしたね。

1次調査

年月日
1995年1月24日〜1996年5月,2011年3月
背景や目的
専門家職能を活かした活動を目的として、20名から30名ほどの建築家で発足したボランティア団体。 震災直後の被災度判定とアドバイスを主な活動としていた。
対象
支援の手薄な白地域への専門家支援
内容
住宅の共同再建、市場の再建、まちづくりへの電話による相談受付、現地視察、アドバイスを行いました。また、東灘区魚崎地区の復興まちづくりに関与。
関係団体・パートナーなど
関西の建築家
場所
魚崎小学校 大テント(拠点)
所在地
兵庫県