臼井真「しあわせ運べるように」
1995年2月27日臼井 真さん/神戸市立吾妻小学校 音楽教諭(当時)
テキスト:高井千珠(2011.10.21)子どもたちに今も歌い継がれ、語り継がれる「しあわせ運べるように」。作詞・作曲をされた臼井 真さんは、当時、神戸市立吾妻小学校の音楽の先生でした。臼井さんは阪神・淡路大震災で自宅が全壊、被災者の1人となりました。この歌はどのように生まれ、どのように歌われているのでしょうか。
気持ちが言葉となってほとばしり、歌が生まれた
1995年1月17日、わたしの自宅は全壊しました。親戚宅に身を寄せ、震災から数日たってようやく学校に出勤できました。学校は避難所になっていたため、同僚は避難してきた人たちの対応に追われていました。家が全壊したとはいえ、すぐに学校に駆けつけられず、避難所の対応に出遅れたことが負い目となって「自分は役に立っていない」と感じました。生き残るんじゃなかった、と思うようなつらい日々を送りました。
そんな中、避難させてもらっていた親戚の家で、変わり果てた三宮の姿をテレビで初めて見ました。その時に「ふるさとが消えてしまった」と感じました。その気持ちが言葉となってほとばしり、歌が生まれました。10分ぐらいでできあがった曲です。地震をテーマにした曲を作るつもりはなかったのですが、自然に生まれたのでした。
地震の1年ほど前から「しあわせを運ぶ天使の歌声合唱団」を結成し、子どもたちが合唱団の名前を書いたプラカードを持ち、学校の内外の方たちに歌の宅急便をするという授業をおこなっていました。「しあわせ運べるように」の歌詞をつくったとき、「しあわせを運ぶ天使の歌声合唱団」のように、この歌を子どもたちが歌い、みんなが笑顔になることをイメージしました。
当初は「しあわせ運ぼう」という題名だったのですが、同僚の先生が「“運ぼう”はかたいイメージがあるから“運べるように”がいいのでは」と提案してくれたことから、子どもたちや避難所のみなさんに初めて披露する直前に、「しあわせ運べるように」に変更しました。
歌だけではなく、体や表情で想いを表現
子どもたちに「しあわせ運べるように」の合唱を指導するときにはかならず、震災時のことや震災で亡くなった方々のことを話します。そして、歌だけではなく、体や表情で想いを表現して歌うように指導します。追悼式などで歌う際には、入退場の時にもふざけたりせず、気持ちをきちんと持って行動するようにいいます。
歌は、言葉やメロディの美しさより、聴く人たちの心に届くことが大切です。聴き手と歌い手の心が通いあわない歌は意味がない。
「しあわせ運べるように」に「届く力」があると感じたのは、震災後に初めてこの歌を子どもたちが歌ったとき、初めての聴衆だったボランティアの方々が全員涙されたときです。あふれるように生まれたこの歌を、これからの未来をになう子どもたちが歌ってくれることで、被災した方々の痛みを癒すことができるかもしれない、想いを届けることができるのではないかと、彼らの涙を見て感じました。
伝えられ、歌い継がれる歌
当初、他校の音楽の先生たちは、この歌を子どもたちに伝えるときに、震災の経験が頭に浮かんであまりにもつらいので、この歌の存在を子どもたちに伝えることができなかったそうです。歌に感動してくれた同僚の先生が、この歌を学校のこどもたちと避難している被災された方たちとのかけ橋にしようと言われ、学校の先生みんなに紹介してくれました。被災された方や避難所、学校を通じて、歌は広まっていきました。
新潟やスマトラ、四川、トルコなどの大地震の被災地でも、ボランティアやNPOの方々の手によって伝えられ、歌い継がれました。また、神戸市教育委員会による、被災した子どもたちの心のケアの本「しあわせ運ぼう」(小学校低学年版/高学年版/中学校版)にも掲載されました。
先の見えない暮らしの中で、「何の役にも立てない」という気持ちに押しつぶされそうになり、「生き残らないほうがよかったのではないか」と思った時期もありました。しかし、震災後にこの歌を作ったことで、歌を認めてもらうことができ、「生きていてよかった、助かって人の役に立つことができた」と思うことができたのでした。