GOING KOBE(2005~2009)/ COMIN’KOBE(2010~)
2005年〜2009年松原裕さん/株式会社パインフィールズ代表取締、Music zoo KOBE太陽と虎、COMIN'KOBE実行委員長
テキスト:小林瑠音松原裕さん(株式会社パインフィールズ代表取締、Music zoo KOBE太陽と虎、COMIN’KOBE実行委員長)
日本最大級の無料ロックフェス「GOING KOBE」、それに続く「COMIN’KOBE」(※1)を継続開催して6年。阪神・淡路大震災を風化させず、語り継いでいくことで神戸を活性化することを目的として始まったチャリティフェスティバルは今年、動員数40,000人、参加アーティスト120組となり、神戸の初夏を盛り上げる風物詩になっています。ライブハウス「太陽と虎」の代表でもある松原さんに、「GOING KOBE」を始めたきっかけや継続させる秘訣などをおうかがいしました。
開始のきっかけ:自らの被災経験と違和感
中学3年生の時に被災しました。受験生だったのですが、授業がなくなって受験勉強どころではなく、その非日常性にショックを受けると同時にどこか高揚している自分がいました。その後、高校に入ってからはバンドを組み、高校3年生の時には全国ツアーに出るまでになりました。
大きな契機となったのが、各地でかけられたはげましの言葉でした。バンド名にFrom Kobeとついていたため、みんなに「大変だったね」と言われたのです。それまでは神戸という狭い世界しか知らず、外からどう見られているかなど考えたこともありませんでした。確かに、当時は水がとまったり電気がこなかったりと大変でしたが、状況を理解していなかったのです。はげましていただいても、ピンとこなかったというのが正直なきもちでした。
その後、神戸に帰ってあらためて家族や親戚、バイト先の方々に当時の様子を聞いてみました。震災の影響で仕事を失ったこと、近所のスーパーが崩壊して再建するのが大変だったことなど、これまで考えたこともなかった一面が見えてくるうち、だんだん罪悪感が生まれて「自分たちの世代にできることをやっていきたい」と考えるようになりました。
ツアーをきっかけに震災を見直すことができたので、僕自身もまわりの人に対してきっかけをつくりたいと強く思うようになりました。バンドをしていたので、音楽というツールを使って、震災はいつ起こるかわからない身近なものだということを伝えたいと考えました。
さっそく神戸市の震災10年委員会にイベントの企画案を持参したところ、当時の担当者が関心を持ってくれました。
1年目は2005年、東遊園地で開催しました。その時は完全燃焼、1回きりのイベントだと考えていたのですが、神戸市の職員から続けるべきだと声をかけていただきました。2回目は2006年、神戸市主催の神戸まつりの一環として開催することになりました。場所もメリケンバークに移って大盛況に終わりました。
ところが、ロックフェス独特のモッシュ(※2)やダイブ(※3)が頻繁に起こるため、その安全性が問題になりました。当時は明石の歩道橋事故の判決が出たころで、集客率の高いイベントを警戒するムードがあったのです。
新たな場所探しに奔走していたちょうどそのころ、ポートアイランドに開校する神戸夙川学院大学にステージがあると聞き、趣旨に賛同してくれた教授に会っていただいて話をすすめ、学内での開催が決定しました。しかし騒音が問題になって反対する声が上がり、大学側から「ここまで反対されると開催はむずかしい」と言われ、中止寸前まで追いこまれました。ありとあらゆる場所をかけずり回って地獄のような思いをする中、その姿を見ていた方が働きかけてくれ、神戸夙川学院大学近くのワールド記念ホールをあけてもらえることになりました。
この年から神戸夙川学院大学の体育館と合わせて2会場とし、屋内イベントとして開催することに。この年は特に大きな問題に何度も直面して大変でした。この時助けてくださった方々には本当に感謝しており、今でもつきあいがありますね。
転換期:風化する震災の記憶、チャリティへの拒否反応
2008年ごろから、周囲の人々の震災に対する関心が徐々に薄れていることに危機感を覚え始めました。震災の風化が一番こわいと思いました。神戸から「発信」しようとスタートしたイベントでしたが、震災を継承しながら神戸に「呼ぶ」という発想に転換。2010年に「GOING KOBE」から「COMIN’KOBE」へ、名前を変更しました。
また、アーティストがチャリティに対する違和感を持っている場合がありました。ストイックなアーティストであればあるほどその感情は強く、「震災を経験していないから偽善になる」という違和感を持っていたようです。当時はまだ、チャリティという言葉になじみが薄い時代でもありました。
そこでフェスティバルの名前を変え、震災一色だったイメージを一新。サブタイトルから震災という言葉をはずして間口を広くし、より多くの人に参加してもらうことをめざしたのです。一見ふつうのロックフェスティバルでありながら、会場内で募金をつのったり、震災関連の催しをおこなったりとさまざまなしかけを工夫しました。このイベントをきっかけに震災について考えてほしい、そんな想いが通じて、動員数は徐々に増えていきました。
第1回目から参加しているアーティストには、ガガガ SPや平松愛理さん、森山未來さんなど神戸出身の方々がやはり多いですね。神戸以外の方でも、泉谷しげるさんや嘉門達夫さんには震災直後から関わっていただいています。ありがたいことに、最近は出演希望者が増えて数年待っていただくことも。オーディションでは、何千組の中から2組を選ぶという状況になっています。ロックフェスがあまり開催されない神戸ですが、ガガガSPが2010年からロックフェスティバルを始めるなど、徐々に盛り上がっているという波及効果もあります。
継続の秘訣:ぶれないこと、強制しないこと
運営資金は企業からの協賛金や出店料、グッズの販売でまかなっています。地元の企業が多く、信頼関係を築くことができており、震災当時に高速道路を建て直した建築関係の方々に舞台を組んでもらうなどしています。
赤字の年はこれまで2回だけで、なんとか運営しています。チャリティとはいえ継続させることを重視、業者さんへの支払いなど、支払うべきものは払うと決めています。2011年の協賛金の出資は12社です。グッズが売れていることも大きいですね。
運営ボランティアの募集では、毎年、大学や専門学校などに出向いて「COMIN’KOBE」についての授業をおこない、学生さんに興味をもってもらうようにしています。
東日本大震災以降は、神戸と東北をつなぐ活動も数多く実施しています。たとえば盛岡でおこなわれる「COMIN’KOBE」のような無料イベントでは、キズナフードマーケットというタイトルで神戸の物産展を開催。そして新長田や神戸夙川学院大学で盛岡物産展を開催し、被災地同士の絆が続いています。では近々、盛岡物産展を開く予定です。
東日本大震災後、被災地での音楽イベントが数多く見られます。神戸での経験を通したアドバイスとしては「ぶれないこと」「強制しないこと」ではないかと思います。特に、ぶれないようにすることは常に考えています。震災に対してはいろいろな立場があるので、見る角度によっても考え方が変わってくると思います。
僕は、このフェスは阪神・淡路大震災があったからこそ生まれたイベントであるとポジティブに考えるようにしています。家族や友人を亡くされた方にとっては、「震災を肯定できない」という想いがあるのも当然です。震災にかこつけてロックフェスをするのはどうか、震災自体を思い出させないでほしい、という方もおられるかもしれません。僕自身、被災しましたが、社会的な被害を受けていないという負い目を持ちながら、それを隠さないようにして一歩ずつ向き合おうとしています。
さらに、さまざまな立場や意見を否定するのではなく、どこまで共感してもらえるかはわからないけれど「僕はこう思ってイベントをやっている」と自分の考えを説明できるようにしています。そうしなければ、参加してくれる人たちがついてこられなくなってしまうからです。
また、参加者には特定のスタンスを強制しないようにしています。アーティストの中には震災に触れない人もいますし、あえて触れる人もいます。いろんなメッセージがあっていい。ボランティアの中にもデリケートな想いを持ちながら参加する人もいますし、そうでない人もいます。その温度差を否定せず、いろんなスタンスでこのフェスティバルに参加してほしいと思っています。
※1 COMIN’KOBE http://comingkobe.com/
※2 モッシュ…ジャンプしたり他人を押したりすることで表現される、おしくらまんじゅう。
※3 ダイブ…モッシュしている観客の上に乗って運ばれていくこと。