御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会

1995年4月23日~2006年12月3日

田中保三さん/元御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会会長

テキスト:小原淳

「御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会」/「まち・コミュニケーション」/「共同再建住宅 みくら5」

 

田中保三さん(元御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会会長、まち・コミュニケーション顧問 ※1、株式会社兵庫商会代表取締役)

阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた、神戸市長田区の御蔵地区。田中保三さんが代表を務めておられた会社も、社屋や商品を失いました。田中さんは震災後も株式会社兵庫商会の代表として、御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会の会長として、御蔵地区の復興に深く関わってきました。現在も、ボランティア団体「まち・コミュニケーション」の顧問を務めるほか、小、中学の修学旅行生への震災体験学習の語り部を、また全国各地へ防災まちづくりの講師として、御蔵地区の「物語」と震災体験を伝える役目をになっています。

 

復興まちづくりについて

長田区の御蔵地区は木造家屋や工場が密集しており、震災による崩壊と、その後の火災によって大半が焼失してしまいました。御蔵地区は神戸市から3月17日に区画整備地区に指定され、そこから復興が始まりましたが、実際には日常のいとなみがあったはずで、ものよりもまず経済や人にまつわることから取り組むべきでした。震災後、この地でまちづくりを始めた時に、そこにある生活に配慮して復興を進めるべきだと叫んでいたのですが、あまり聞いてもらえませんでした。市は「ハコモノ(建物)」「スジモノ(道路)」「ヒラバモノ(公園)」をつくることに主眼をおいてどんどん整備していき、まちの人々は置き去りにされたような気がします。
今、東日本大震災の被災地でこれからのまちづくりの話をしようとしても、人はなかなか集まらないことでしょう。阪神・淡路大震災時も同様でした。震災後は、親戚や友人を頼って住んでいた土地を離れた方や、遠くの仮設住宅に入った方も多く、地区のまちづくりに関わったのは、自力仮設を立てた、傾いた家に暮らし続けた、焼けた工場に手を入れて仕事を再開したなど、大半がその土地に残った人で、ごくわずかでした。

今、東京で盛んにおこなわれているのは、事前復興というスタイルです。地震発生時にどう対応するか、どこに仮設住宅を建てるかなどをあらかじめ決めておくのです。都心でも、神戸でも空き地はけっこうあります。使われていない工場をうまく使って仮設住宅へ転用するなど、阪神・淡路大震災からの反省をふまえた取り組みがおこなわれています。

 

長田区御蔵地区と地場産業

震災後、御蔵地区にもどった人口は、震災前の約83~84%。神戸市の区画整理の中でも人口がここまで回復した例は稀で、他の地区では6割ほどしかもどっていないそうです。御蔵地区には復興公営住宅が2棟建ったため、それで人口を稼いでいるのかもしれませんが…。
復興公営住宅を100戸建ててほしいという地元の要望を前提に、区画整理の図面がつくられました。地元で商売をしている人や住んでいた人がもどってくるなどして、まちづくりに関わっていたのです。
震災で、ゴムや鉄工所などの地場産業はだめになってしまいました。御蔵地区には下請け、孫請け、曾孫請け会社が数多くありましたが、衰退してしまったのです。一時、造船や製鉄所で働いている人は何万人にものぼりました。震災前からの時代の流れで、今では何千人にまで減少しているでしょう。
現在のHAT神戸エリアにあった製鉄工場は、加古川や千葉、水島へいってしまいました。御蔵地区ではケミカルシューズの内職業も盛んで、熟練すれば稼ぐことができました。けれど、衰退してしまってからは失業した方が大勢いました。
時代とともに、産業は変わります。うちの会社も全部で6棟ありますが、本当はそのうち2、3棟あればこと足りる状態です。東京でもよく話すのですが、私たちみたいなサービス産業でも、6棟のうち実質4棟しか稼働しておらず、使っていないところがあります。まちの中には必ず、空き家のほかに本当の意味で使っていない場所が、合理化を進めていくと絶対に出てくると思います。

 

自身の会社について

震災の翌日から商売をしようと思っても、鉛筆1本、紙1枚無い状態でした。売るための商品すべてと会社の車が焼失してしまい、車を出すこともできませんでした。けれど幸い、社員は全員無事だったので、自分には社員とその家族を養う義務があると考え、会社で所有していた一番広いスペースに会社の仮設を建てることに決め、日本のメーカーでは取り合いになると思ったので、付き合いのあったフランスの商社からコンテナを輸入しました。社員みんなが入る為には3階建ての仮設社屋が必要でしたが、市にはだめだといわれました。だめだといわれても、商売をしなくてはならない。それならうちの社員を市で雇ってくれるのか、3分の1の社員を雇ってくれるのかと抗議しました。仮設の会社をバラバラに建てたらお金がかかることもあり、結局は強引に建てました。
誰が生活の面倒をみていくのか。都市計画にたずさわる土木、建築はつくることに主眼をおいていますが、人文学や経済学、社会学、地政学などの視点も必要だと思っています。住んでいた土地にもどってきたいという人がいたら、またそこに建ててもよいと思います。区画整理の対象になれば、移転補償金もおりるはず。私の会社は場所を3回移しましたが、1回分しか移転補償はでていません。けれど、建てて減価償却した分くらいのお金はもらっていました。この地区で建てた方の中から、移転補償が極端に少なかったという不満は聞いていません。

 

御蔵通5・6・7丁目町づくり協議会について

まちづくりをする、といってもどんなまちにすればよいのか最初はわかりませんでした。土木出身なので都市計画はある程度わかるのですが…。
震災直後の1月末に、交友のあったNGO団体のピースボートから、プレハブ住宅と自転車を御蔵地区に持ってきてくれるという話がありました。自転車は勝手に持っていってもらえるが、プレハブ住宅は用地関係の対応ができる人でなければ持っていけない。では川辺の公園に建てようと提案しましたが、役所が了解しませんでした。テントなどはいいけれど、仮設住宅はだめなのだと。
プレハブ住宅は、3月から5月の間に届きました。約20棟持ってきてもらいましたが、実際に建てたのは15,6棟でした。灘や須磨にも建てました。するといつの間にか功績を認められてか、自分も知らないうちに御蔵地区のまちづくり協議会の顧問になっていました。

 

まちづくりの絵を描く

住民だけではまちづくりの絵が描けないので、まちづくり協議会で意見をまとめ、コンサルタントに絵を描いてもらいました。この地区には、震災前から大阪のコンサルタントの方が入っていました。震災後も同じ方がそのまま継承しましたが、我々からすると、行政側のイエスマンでなかなか我々の意見を聞いてくれませんでした。
最初に行政から出ていた案は、御蔵地区に2500㎡の公園と、道路を広げ10m道路を十文字につくりましょうというものでした。この地区は5丁目、6丁目を東西南北に田の字型の道路でわかれる形になっていて、4つにわかれたうちの1区画に大きな2500㎡の公園を配置することになります。我々住んでいた者からすると、町のバランスがくずれるように感じられました。結局、1000㎡の公園と1500㎡、二つの公園をつくることで落ち着きました。1000㎡の公園は乳幼児~小学校低学年用で、球技をしない「静の公園」として、1500㎡の公園はフェンスで囲い、球技ができる「動の公園」としました。
焼けた電柱、焼けた楠や慰霊モニュメントも、我々の提案で二つの公園に強引に設置しました。焼けた楠は公園にふさわしくないので切れ、という意見もありましたが、震災で焼けた象徴的なものだったので残しました。慰霊モニュメントは仮枠と鉄筋の工程を業者に依頼した以外は、穴を掘り、割栗石を敷く作業からおこない、コンクリートの打設も階段状の足場を組み、生コンクリートをバケツリレーで運んで流しこむところまで、地域の人たちが関わってつくり上げました。

 

まち・コミュニケーションの結成について

被害の大きかった御蔵地区は、ボランティア村になっていました。外からやって来たボランティアは、仮設住宅に入った被災者を追いかけて行動していました。けれど仮設住宅に目を向けても、まちは直りません。まちを早く復興するために、まちの中でコミュニケーションをとりながら復興しましょうよ、ということになりました。
そこでこの町に基地を置いたSVA(公益社団法人シャンティ国際ボランティア会)とピースボートのメンバーから1人ずつ、そして私の3人で「まち・コミュニケーション」を結成しました。当時は、住民もまち・コミメンバーも、都市計画や共同住宅について全然知りませんでしたから、あちこちの先生のところへ聞きに行き、学びながら成長していきました。彼らは、コンサル・行政と住民との対立構造があるところへ第3者の立場として介入し、話し合いはようやく前に進み始めました。
住民は毎日の生活で精一杯です。外から情報を得たり、先生の話を聞きに行って勉強する時間もないので、代わりに、先生や外部の方々から聞いてきたことを素人なりに咀嚼して伝えてくれたり、先生を呼んできてくれました。
数回にわたり、協同住宅の専門家の先生を招いて協同住宅とはどんなものなのかを話してもらったところ、住民は大変興味を持ちました。その先生が建てた共同住宅を見に行き、勉強しながら「みくら5」を建てました。

 

共同再建住宅 みくら5について

御蔵地区で被災した人々はあちこちに離れて土地を持っていました。「みくら5」の共同住宅は、飛換地(とびかんち)という方法で、離れた土地を持ち寄せて建てました。交流があった数名の大学の先生に相談しました。はじめは6丁目に大きな住宅を建てようと提案しましたが、地主さんが許可してくれず実現できませんでした。
建築学と社会学の先生方について各地主さんに会ってまわる中、それぞれのスタンスの違いがよく表れていました。建築の先生は「建てたらこんな形になりますよ」「これぐらいの間取りになりますよ」とつくることに主眼をおいていました。一方、社会学の先生は「今の生活はどうですか」「家賃はどれくらい払っていますか」「家賃補助を利用して入居していますか。復興住宅へ移ると補助がなくなりますよ」「子どもさんが大きくなったら大変ですよ」など、人々の生活に着目したアプローチが特徴的でした。「それなら共同住宅はどうですか」と宣伝し、公団の割賦金を使って建てることになりました。
その時は、建築の先生の説得のおかげでうまくいきました。一度更地になってしまった土地に自分の力で仮設を建てれば、次は自分の家を持とう、という気持ちを抱けます。狭い2Kの家を建てることでも、その小さな家での生活に夢や希望がふつふつと湧いてくるでしょう。

人生は、希望と勇気とサムマネー。本当は統一規格大量生産の物よりも、夢をもたせてあげた方がいいのです。大量生産のプレハブでは、地元にお金が還元されません。震災後、人口をもとにもどそうと盛んに叫ばれていましたが、地域に人がもどらないことには物が動かず、お金も動かないのです。

 

まちづくり協議会での反省

多くの住民は自分の家に関心があり、全体のまちづくりにそれほど関心があったわけではありません。まちづくり協議会で月刊の機関紙を発行し、経過報告をおこなっていましたが、宛先不明で送り返され、そのまま連絡先がわからなくなることもあり、アンケートの回収率もだんだん少なくなっていきました。たとえばパートを3件かけもちしているなど、いそがしくて物理的に参加不可能な方など、まちづくりから漏れてしまう方々のことも考えないといけませんね。
御蔵地区は、雰囲気が大きく変わってしまいました。協議会に参加している方々とは、図面を見ながら一緒につくりあげているので話を共有していますが、参加していない人にはまったくわからない。広報はしていましたが、絵だけを見てもわかりません。まちづくり協議会のメンバーで、大阪や西宮などあちこちの公園を見て回り、どんな公園がよいのだろうと必死になって調査しました。この土地ならではの知恵を出そうと、焼けただれた楠や電柱をまちの象徴として、わすれないでおくために残そうと提案しましたが、どうしてあんなみすぼらしいものを残すのか、という意見も出ました。
まちづくり協議会が失敗したのは、住民がもどらないことで住民の意見の最大公約数がわからなかったからだと思います。
自治会は住んでいる人たちが主体ですが、まちづくり協議会には地主も入りますので、土地の活用方法をどうするのかもうかがい知れます。非常時にそなえて、協議会を設置しておく方がよいと思うのですが、お金がらみの問題があり、結局は解散してしまいました。
まちづくりは住民とコンサルタント、役所のトライアングルではありません。3人で旅行すると、不思議と2対1になるものです。3者の構図に加えて、ボランティアやマスコミが参加してくれればよいと思います。
私は、マスコミの方々をニュースソースとして利用しており、それが自治会から嫌われた要因のひとつだったのだと思います。けれど、その地区についての詳しい情報はそこだけにいるだけではわからない。横のつながり、この話はだれに聞いたらよいのかなど、当時はマスコミの方々に聞くことで知ることができました。

 

被災地で活動した経験者として

とにかく語り続けなあかん、と思います。語る、というのは記憶を新たにすることではなく、今起こっていることに対して感性を鋭敏にはたらかせています。感性をどうはたらかせるか、ということを個々に感じ取ってほしいと思います。
たとえば東日本大震災では、岩手・釜石地区では津波に巻きこまれて亡くなった小・中学生が少ないそうです。群馬の先生が大人を対象にした防災教育をおこなっていましたが、それでは同じような顔ぶれしか参加しないもの。それではいけない、ということになって小・中学生を対象に防災教育をおこなうことになり、釜石地区のモデル校として防災教育を実施したそうです。避難訓練では、中学生が小学生の手を引いて老人施設へいったん避難、それから高台へ避難することになっていました。3月11日に津波が来た際も、中学生が小学生の手を引いて老人ホームへ避難し、これでは危ないとの判断で高台へ避難しました。それでも危ないということでさらに高台へ避難し、被害が少なかったのだそうです。
一般的な避難訓練マニュアルでは、沿岸部で地震に遭遇した場合は高台に避難する、と記してありますが、どこの高台へとは明記されていません。ふだんから非常時を想定して訓練していれば、避難するための高台への山道に階段を設置するなど、何かしら対策を講じることができるはずです。登れないなら、みんなで丸太を加工して階段をつくろう、ということにもなるはずです。
日ごろしていないことは非常時にもできない、という話をいつもしています。非常に大事なことです。どこが、なにが生命のわかれ道なのかはわかりません。生き残るためには「絶対、死ねない」という意思が大切です。

 

※1 阪神・淡路大震災まち支援グループ まち・コミュニケーションhttp://park15.wakwak.com/~m-comi/

1次調査

日時補足
1995年4月23日「御蔵5・6丁目町づくり協議会」が設立 2006年12月3日「協議会の解散について」の議題で協議会臨時総会を行い、解散を決議
背景や目的
1995年4月23日に地区の住み良いまちづくりを推進することを目的として、住民、家屋・土地所有者全員を会員とするまちづくり協議会が設置されました。 2回のまちづくりアンケートを踏まえ「まちづくり提案」を作成し、96年9月13日に神戸市に提出した。97年1月14日に土地区画整理事業の事業決定が行われ、98年1月12日に仮換地指定が始まった。また、共同化事業も行われ「みくら5」が完成した。【WEBより引用】
内容
1995年4月23日に地区の住み良いまちづくりを推進することを目的として、住民、家屋・土地所有者全員を会員とするまちづくり協議会が設置されました。住宅再建支援、受け皿住宅入居支援、公園ワークショップ、コミュニティ道路ワークショップなど、基盤整備に住民の意見を盛り込み、住民参加の復興まちづくりに取り組んできましたが、一定の役割を果たしたとして2006年11月に解散しました。【WEBより引用】
関係団体・パートナーなど
まち・コミュニケーション
場所
神戸市長田区御蔵地区